知らないところや知らない人が嫌です
お寺に行ってお坊さんの面白い話を聴いたり座禅会?というものに参加したりしてみたいんですけど、知らない場所に行くとか知らない人に会うとかが苦痛です。
どうしたらいんでしょう?
昔からの悩みです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
目はいつも新しいものしか見ない
本来参禅というものは参禅者同士、見知らぬ人たちと口をきく必要もありませぬ。
有名な良寛さんとて隣の単(坐禅の座席)の人が誰であろうか気にもせず自分を明らかにするために坐に打ち込んでいたと言います。それが修行の在り方なのです。
よって参禅会というものは本来、人と出会って集うこと、知り合いになる事が目的ではありませんので気軽に参禅してください。(^<^)
土地、道に関しては私もはじめての地では道に迷うというようなことはよくあります。
でもそれが困るのは迷った時くらいなものではないでしょうか。
目的が無ければ「そこにいるだけ」「そこを移動・通過しているだけ」ではないでしょうか。
道路に迷うというのは行き先があるからであって、目的地にたどり着くもつかざるも、それはそこを生きて過ごしている姿。(仏道もまたしかり 故に安居という)
もう少し深い話。ちょっと視点を変えてみましょう。
目はいつでも、いまでも「初めてのもの」しか見ていません。
昨日のものは見れませんし、一秒前のものだって見えません。
科学的にも医学的にもそういう働きをしています。
ビデオカメラのように新しいものっぱなしの映像を常に映し出しているのが我々の眼の働きです。
わたし共の目の働きは、見たものをそのまま受け入れています。
ふれたものをただ映し出しているだけです。
どんなにはじめてな場所でも眼はそれをそのまま映しているだけです。
どんなに嫌いな人であっても、そのままとして映しています。
目は好き嫌いをしません。
毎日同じものを見ているつもりであっても毎日、毎秒、毎瞬、真新しいものを映し出しています。
その働きにお気づきになればすがすがしい生活が送れると思います。
袖ふれあうも他生の縁
知っていると知らないという区別は大変曖昧なものです。
全く知らないつもりでも向こうから『先日どこどこでお会いしてお話ししたじゃないですか!』などと怒られてから知っている人だったと気づいたり…。さらに歳を取ると自分の家族すら痴ほうなどで『知らない人」になってしまいます。
かと思えば、初対面なのに絶対どこかで会ったはずと思う位すぐに打ち解けることもあると思います。
昔からよく言われている事には
『袖ふれあうも他生の縁』という言葉があります。
この生涯でふれあう人全て、前世でお会いした人であるという事です。
ましてや坐禅会でお会いする方々は、きっとご縁の深い方ではないかなと私は思います。
場所とて同じ事ではないでしょうか?
坐禅会の自由時間に勇気をもって『こんにちは、どちらからお越しになりましたか?』などと話しかけてみてはいかがでしょうか?
黙っていては怖いだけですが、話してみると初対面でも意外と打ち解けるものだと思います。
そうやって知り合いが増えて行けば,少しずつ不安も無くなって行くのではないかと思いますよ。
ワシも一人で知らないところに乗り込むのは苦手です。
苦手なんですよワシも学生のころは、いじめられていたということもありますが。
でもね、先ずは講演会に行き、知らない人が居ても問題のないイベントから参加している内に知っている人より他人の方が親切なことが分かりました。誰でも、他人は苦手です。ですから、いきなり不愉快なことはしないものです。大人社会でいう社交辞令が良い風に働いたと思います。皆が皆そうではありませんが、いきなり他人に嫌なことをしないものです。これから仲良くなるかもしれない人に不親切には出来ません。皆、あなたと同じ気持ちで他人と関わっているのですよ。それが表に出るか裏目に出るかの違いではありませんか?嫌な目に合うこともありますが、それは他人だからこれからも関わらないので、割り切りましょう。100人中1人仲良くなるということを目標に持って他人と接しましょう。だから、100人未満の場合は誰とも仲良くならなくてもいいのです。だから、思い切りは必要ありません。坐禅なら坐禅。写経なら写経をすればいいのです。他人はあなたの目的と関係ないのではありませんか?
質問者からのお礼
ありがとうございました。