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知らないところや知らない人が嫌です

回答数回答 3
有り難し有り難し 37

お寺に行ってお坊さんの面白い話を聴いたり座禅会?というものに参加したりしてみたいんですけど、知らない場所に行くとか知らない人に会うとかが苦痛です。
どうしたらいんでしょう?
昔からの悩みです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

目はいつも新しいものしか見ない

本来参禅というものは参禅者同士、見知らぬ人たちと口をきく必要もありませぬ。
有名な良寛さんとて隣の単(坐禅の座席)の人が誰であろうか気にもせず自分を明らかにするために坐に打ち込んでいたと言います。それが修行の在り方なのです。
よって参禅会というものは本来、人と出会って集うこと、知り合いになる事が目的ではありませんので気軽に参禅してください。(^<^)
土地、道に関しては私もはじめての地では道に迷うというようなことはよくあります。
でもそれが困るのは迷った時くらいなものではないでしょうか。
目的が無ければ「そこにいるだけ」「そこを移動・通過しているだけ」ではないでしょうか。
道路に迷うというのは行き先があるからであって、目的地にたどり着くもつかざるも、それはそこを生きて過ごしている姿。(仏道もまたしかり 故に安居という)
もう少し深い話。ちょっと視点を変えてみましょう。
目はいつでも、いまでも「初めてのもの」しか見ていません。
昨日のものは見れませんし、一秒前のものだって見えません。
科学的にも医学的にもそういう働きをしています。
ビデオカメラのように新しいものっぱなしの映像を常に映し出しているのが我々の眼の働きです。
わたし共の目の働きは、見たものをそのまま受け入れています。
ふれたものをただ映し出しているだけです。
どんなにはじめてな場所でも眼はそれをそのまま映しているだけです。
どんなに嫌いな人であっても、そのままとして映しています。
目は好き嫌いをしません。
毎日同じものを見ているつもりであっても毎日、毎秒、毎瞬、真新しいものを映し出しています。
その働きにお気づきになればすがすがしい生活が送れると思います。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

袖ふれあうも他生の縁

知っていると知らないという区別は大変曖昧なものです。

全く知らないつもりでも向こうから『先日どこどこでお会いしてお話ししたじゃないですか!』などと怒られてから知っている人だったと気づいたり…。さらに歳を取ると自分の家族すら痴ほうなどで『知らない人」になってしまいます。

かと思えば、初対面なのに絶対どこかで会ったはずと思う位すぐに打ち解けることもあると思います。

昔からよく言われている事には
『袖ふれあうも他生の縁』という言葉があります。

この生涯でふれあう人全て、前世でお会いした人であるという事です。
ましてや坐禅会でお会いする方々は、きっとご縁の深い方ではないかなと私は思います。
場所とて同じ事ではないでしょうか?

坐禅会の自由時間に勇気をもって『こんにちは、どちらからお越しになりましたか?』などと話しかけてみてはいかがでしょうか?
黙っていては怖いだけですが、話してみると初対面でも意外と打ち解けるものだと思います。

そうやって知り合いが増えて行けば,少しずつ不安も無くなって行くのではないかと思いますよ。

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おきもち

個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

ワシも一人で知らないところに乗り込むのは苦手です。

 苦手なんですよワシも学生のころは、いじめられていたということもありますが。
でもね、先ずは講演会に行き、知らない人が居ても問題のないイベントから参加している内に知っている人より他人の方が親切なことが分かりました。誰でも、他人は苦手です。ですから、いきなり不愉快なことはしないものです。大人社会でいう社交辞令が良い風に働いたと思います。皆が皆そうではありませんが、いきなり他人に嫌なことをしないものです。これから仲良くなるかもしれない人に不親切には出来ません。皆、あなたと同じ気持ちで他人と関わっているのですよ。それが表に出るか裏目に出るかの違いではありませんか?嫌な目に合うこともありますが、それは他人だからこれからも関わらないので、割り切りましょう。100人中1人仲良くなるということを目標に持って他人と接しましょう。だから、100人未満の場合は誰とも仲良くならなくてもいいのです。だから、思い切りは必要ありません。坐禅なら坐禅。写経なら写経をすればいいのです。他人はあなたの目的と関係ないのではありませんか?

 

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目指せ!となりのお坊さん あなたの小さな悩み相談お答えします  私があなたの悩みを解決するのではありません あなたの悩みを解決するお手伝いを私がするのです ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。
ここだけの話し  どんな些細な質問でも回答します! ・私の目指す僧侶は一休さんのようなちょい悪坊主です。時には常識にとらわれずとんでもないことを言いますが、しっかり受け止めて下さい。私もしっかりとあなたの質問を受け止めたいと思います。 ・先ずは30分からで、システムに慣れたら時間を延ばしたいと思います。

質問者からのお礼

ありがとうございました。

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