何も求めない気持ちが出て来ました。
度々お世話になっております。
以前から変化がありました。
SNSで求められ、絵と小説という世界にも求められ、自分なりの道が誰かに何かを与えています。
でも、あまり心境に変化はありません。
どこか現象的に見ているだけです。
仕事だけが人生ではありません。
社会の中に組み込まれたとしても、僕にはあまりしっくり来ない。やはり欲がない。
生きる事に執着がなくなって来ました。
職業ではなく、無償であるからこそ言える言葉もあると思います。
与えられるものは僅かで充分です。
返事のない言葉であってもいい。
僕は仏門に向いていると思いますか。
お坊さんからの回答 5件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
大きく深い御心。仏さまにお任せもいいんじゃないかしら。
あなたを求める人がいて。それに応えつつも。あなたの心境は変化がない…というよりも、しっくりこないのですね。
求めるものが相互に実感し合えて、存在を感じたり、社会に生きる目的が見えてきたり。するのかな。
生きる事に執着がない。というのが今の気持ちなのですね。
仏様の目や世界は、私たちの人間社会を超えたとこらから、喚んでくださっているように思います。とてつもなく大きく深い御心で、私を見てくださっている。
そんな仏さまに、お任せしていくのもいいんじゃないでしょうか。
仏道は、仏様を慕いめざす道。私も、頼って生きています。
生きる事に執着がない。という あなたを、私は近くに感じていますよ。
不思議ですね。
人は皆、世の中の善玉菌マン。(⚈ ̍̑⚈ ̍̑⚈)発菩提心
人の世に影響を与える力を持った方が為すと良いとされることで最高最上のものは人に幸せを与える、人にやすらかな心を与える、良き智恵を与えること。さらには「私たちもこういう活動をしてみたい」「していこう!」と思って頂けるような、そういう精神・ココロを広めることです。
アンパンマンで言うならアンパンマンを世の中に沢山産みだし…いや、むしろジャムおじさんを沢山産みだす精神です。
世の心の善玉菌作用となる良き心は、アンパンマンが一人で頑張っても時々顔が濡れ力が出なくなります。無償だとジャムおじさんも新しい顔の材料が買えずチーズもドックフードにありつけずバタコも栄養失調で倒れバタコ👼です。
仏教の宗教精神とは道心、菩提心。
菩提心とは悟りや涅槃を超えて大事にされるべき精神。
今や仏教業界でも菩提心が乏しいため仏教も形式儀礼的なものばかりが尊重され、善玉菌を広めるジャムおじ、アンパンマン的人材が不足しております。
葬儀や法事に菩提心が無ければどうなるか。
法要も只の形式儀礼になり、参列者に菩提心が生まれずアンパンマン(僧侶)任せになります。
そもそも釈尊、祖師たちは菩提心をおこして、真実の仏法を求め自己の内部、自己と周りとの関係性の内に人が見落としていた大真実を見い出されたわけです。さらには、その救いのありかを多くの人に説き広めて、人々の身心の中にある仏の働き、救いの働きを見つめさせ、見出させて、人生における聡明な智慧、安穏なる心を会得せしめて世に善玉菌を広めた訳であります。
ところが、あなたも時に虚しさを感じませんか。無償、無償。大事なことでしょうが、受け取る側に回向(報謝・ひろめ)の発動がない。良いことを廻らし向ける精神が生じない。ただいいものをもらって本人たちが向かうべき方向を見出し得ない。ただのイベント、ただのお祭、ただのお楽しみ。その後の人生に善き影響とならない。
地域の祭りも昔は神仏を敬う精神があったのですが、昨今、無い。神仏をお祭して感謝し、分かち合い、おまつり、お祀り、お政、奉り、お祭りする精神が無いのだ。ただのフェスティバルと化してゆく…。
よって、この今の世界に必要なのは血の通った新しい顔、心の善玉菌、そしてそれを生み出し、実効性あるものとして広める精神なのです。
そう。あなたもわたしも善玉菌マン。
善玉菌マン!あたらしい顔(ネタ)よ!
(⚈ ̍̑⚈ ̍̑⚈)
すべての命は生まれながらにして仏となる可能性を秘めています
ご相談ありがとうございます。これまでの険しい人生を歩まれる中で、多くを手放し、「何も求めない」「無償で与えたい」という静かな境地に達せられたのですね。見返りを求めず、ただ誰かのために言葉を紡ごうとするそのお心は、まさに仏教が説く「利他」の精神そのものです。
大乗仏教には「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という言葉があります。すべての命は生まれながらにして仏となる可能性(仏性)を秘めているという教えです。あなたが今感じている穏やかな執着のなさや、他者へ捧げる無償の思いも、ご自身の中にある仏性が現れたものと言えるでしょう。
「仏門に向いているか」との問いですが、仏の道にも様々な道のりがあります。出家して僧侶になることだけが仏道ではありません。在家のまま教えを深め、日々の生活の中で他者に寄り添うことも立派な菩薩行です。ご自身の心が最も自然でいられる方法で仏教に触れ、その尊いお心を深めていっていただければと願っております。
拝
縁起寺 釋聴法
どうか歩んでみて下さい
拝読させて頂きました。
あなたの近況や思いを読ませて頂きました。
あなたは生きることに執着がなくなってきたのですね。具体的なあなたの状況や心の中はわからないですけれども、あなたのその思いを受け止めさせて頂きます。
あなたがそのように執着を手放しているのであれば仏門に入るのも、仏道修行なさるのも向いているのではないかと思います。
仏様にお向き合いなさり自らしっかりと生きることに取り組んでいくことはあなたの人生にとって大きなものとなるでしょう。
あなたがどのような御修行なさっていかれるのか、どのようなご心境に至るのかはわからないですけれども、あなたが目指す道を求める教えに自らしっかり歩んでいってみて下さいね。
あなたがこれから仏道修行に向かっていかれ、この上ない境地に至りますように切に仏様にお祈りさせて頂きます。至心合掌
仏教は誰にでも向いている
仏教は、煩悩(悩み苦しみの原因)を制御したり消したりして、悩み苦しみを制御したり消したりする教えです。
誰にでも煩悩や悩み苦しみがあるので、仏教に向いていない人間はいないのです。
ですから、是非仏教について調べてみてください。とても面白い教えです。
欲も煩悩なので、欲が減ることは心の平安につながりますから良いことです。
ただし、怠けの煩悩が表に出ていて欲がなくなっていると勘違いしているだけの可能性もあります。
つまり、本当に悟って欲がなくなったのではなく、心身のパワーが弱って怠けが出ている場合もあるのです。
お釈迦様は、ご自身が悟ったあとは、梵天という神様に「教えを説いてやってくれ」と頼まれたのをきっかけに、ひたすら他人のために教えを説き続けました。
ご自身が亡くなる少し前の病床でも、訪ねてきた人を拒まずに最後の弟子として受け付けました。
悟った人(成仏した人)には、自分のための執着がないので、体力の限界まで他人のために奉仕できる身軽さ(怠けの重りがない)が宿るのです。
私だったら「今日は疲れているから」「今日は忙しいから」と面倒なことはお断りしたくなります。
さて、一方で、お寺を管理したり宗教法人を運営する仕事としての住職や、信者や弟子に教えを伝え教える教師としての僧侶には、やはり向き不向きがあります。
仏道修行の門は誰にでも開かれていますが、プロの僧侶になれるかどうかはまた別の話なので、あなたがどのような「仏門」をイメージされているかによって答えは変わると思います。



午後から夜の時間帯は都合がつきやすいです。
◆こちらから、無理に聞き出すことは致しません。
言いにくいこと、言えない気持ちも大切にします。あなたのお気持ちのままに、ゆっくり待ちながら、その気持ちを大切に受け止めたいと思っています。
◆自死で大切な人を亡くされたり、死別により 死が受け入れられなかったり、心の整理がつかない方へ。30分ずつでも、オンラインで定期的に気持ちに向き合っていきませんか。吐露したり泣ける時間も、大事なグリーフケア 。
◆個別電話ってドキドキして勇気のいることだけれど、声が届くから、聞こえてくるから、ちゃんと繋がっているようで、そばにいるように安心出来ることもあります。
◆ 終末期ターミナルケア、看取り、希死念慮、自死、グリーフケア、トラウマ、PTSD、子育て、産前産後うつ、不妊、傾聴、手話、要約筆記者 としても、サポート
◆出来るだけ希望時間にお応えしたいと思いますが、午前中は毎日 法務があります。
(相談は、hasunohaオンライン相談より受付下さい。お寺へのいきなりの電話相談は受けていません。法務が優先なので)
◆一人で悩まないで。待っていますね(﹡´◡`﹡ )