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自分を許すこと

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過去に様々な出来事があり、自分で自分を許せずにいます。

開発プロジェクトの失敗などで大切な命を間接的に亡くす結果となったこと、悩んでいる友達を救えなかったこと(自殺なども含めて)、自分を待っていてくれた大切な人たちの思いに答えることができず(私がくるのを待っていた人たちがいました。それぞれの事情は違いますが、どれも国が違っていたため私はいつも最期に間に合いませんでした)、多くのひとにつらい思いをさせてしまった気がしています。常に、あの時にこう行動できていれば、とどこかで自分を許せずにいます。

過去を振り返ってめそめそするタイプではなく、あくまで毎日を大事に、一生懸命精一杯自分のできることをこなして生きているつもりです。ただ、あるきっかけがもとで過去を思い出すことが増え、思い出す度にやはり失った大切な人たちへの思いで胸が痛みます。そして、自分を許すことができていないことに気づかされます。長年の様々な葛藤から、怒りや憎しみ、嫉妬などは持たないと決めているので、私にとって他人を許すことはとても簡単にできますが、自分を許すことがどうしてもできない。

潜在意識で、それは夢となって襲ってくる時があります。自分を仏として仏性があると、そう思うことは他人に対してはできるのですが、自分に対してそう思うことは私にとっては難しい。最終的に、空のレベルでの境地においては善悪もなく、そして許すも許されるもないとわかっていても、現実の世界でのレベルでは感情がついていきません。

自分を許すということを、仏教ではどう捉えていますか?
そして、ご回答いただける方へ、あなたは自分を許せますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

許せないのではなく こだわっている 固執しているのです

取り合い、取り扱いを起こす。
心の中で沸き起こってきたことを毎回毎回、つかまえてしまうマイカさん、こんにちは。
心の中にドンブラコ川という川がありましてな。
川上からいつもドンブリコ、ドンブリコ、と色々な情報が流れてくるんざますの。
マイカさんは、きっちりとした性格であられるご様子。
毎回毎回、全部を拾い上げようとしているのでしょう。
それは、ある種欲張りというもの。情報なんて無限にあるもので、とてもすべてを拾い上げられるものではありません。
今日から、マイカだけに「まぁ、いっか」とスルーするーのです。
SNSのどうでもイイ記事を指先一つでスルーするように、スルーするぅのです。
赦すということってのは、許そうとして赦すんじゃないのです。
今既にケロリンしていて、問題になっていなかった自分に参ずるのです。
もう、今ちょっとの間だったけど、忘れとった自分があるでしょう。
問題にしてなかった、取り合っていなかった、ケロリンしていた自分。
たとえば顔にどうしても取りたいほくろがあったとします。忘れている時は何でもないのです。
取り除こうと思って高須クリニックを予約しようとまで考えていたのに、忘れている時には、除去されているのと同じくらいへっちゃらになっているのです。
そういう、心の中で取り上げられてない時は、人間が赦す、自分が許すのではなく、生命として赦せているのです。それが真の赦し、許しです。あなたはあなたという自分が許そうとしていた。だから矛盾が起こる。目を開きながら、目の前のものをみないようにしよう、としても見ています。掴んでいるものを掴みながら何も持たない状態になろうとしても、持っています。許そうとしようとして、その事をずっと気にしている。ゆるす、忘ずる、放ぜる訳がありません。
私は、ドンブラコ川から流れてくるものはイチイチ相手にしていませんから、残り物がありません。
さて、また川上から色々なものが流れてきました。もう拾わんでいいのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

『生死事大 無常迅速 各宣醒覚 謹莫放逸』

マイカ 様

質問を拝見いたしました。拙いながら一言残させていただきます。

タイトルの言葉
「生死は仏さまの一大事、時は無常に迅速に過ぎ去っていく、おのおのこの現実に目覚めて、弁道精進につとめ、無為に過ごしてはいけない。」という意味です。

現実に苦しんでおられるご様子ですが、私たちは現実を除いて生きていくことはできません。
本当に苦しいことです。頭で解っていても、現実がその頭でイメージしたり、心の中で思っている様になっていないと、苦しいと感じたり、悩んでしまう。それは、自分が生きているからこそであり、煩悩や自我という拭っても拭いきれない、生きているのに必要なものを私たちは持ち合わせていることを、「悪いこと」と「自分の中で決めつけてしまう」からではないでしょうか。

確かに、煩悩や、自我というのは一見わがままであったり、自分勝手さを創り出す材料であるから、無い方がいい、少ない方がいい。とはいえ、ゼロになるというのは生きている以上は難しいのでは無いでしょうか、少なくとも私はそう思っています。

だからこそ、我々一人一人の人間は、与えられた自分の命を生きていくこと自体が修行なんだと思うんです。苦しみ悩んでいいんだよ、と思います。
おのおのがそのことに目覚め(醒覚し)、つつしんで、ほういつにすることなかれ(あっという間の人生なんだから無駄にしてはいかんよ。)。

そこに、自分を許すことも含まれるでしょうし、他人を許すことだって含まれると思うんです。

最後に、私自身、僧侶として、お恥ずかしいほどの浅学、ましてや、人の役に立てるような存在ではありませんが。そんな自分を許すも許さないもなくただ自分に素直に今の有り様を受け入れるのみです、うまくいかないこともありますし、悪い夢も見ますし、過去の過ちに後悔することだってあります、事の大小に関わらず、してしまったことは取り返しがつきません、その傷を胸に抱いて、自戒を持って生きていくしかありません。現実の社会の中で皆様と様々なカタチで縁をいただき、どうにもならないことに悩み苦しみながら、手を合わせていく、心を傾けていくことに他なりません。

マイカ様の、外に向けた優しいお人柄、そして内に対する自分への厳しさを、この質問で垣間見ることができました。悩み苦しみながら、日々のご精進に勤めていただければと思います。合掌

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おきもち

こんにちは。 埼玉県秩父市のお寺で住職をさせて頂いております、野村圭秀と申します。 縁に随って生かされている、そんなことを感じている40代の僧侶です。 沢山の回答はできませんが、よろしくお願いします。 【プロフィールを見てくださった方へメッセージ。】  一期一縁、再び訪れることのない今<時間>や此処<場所>を生きていく、というコトを私は心掛けるようにしています。 どんなに辛く、悲しく、暗い所にいても、心を閉ざしていたとしても、あなたのすぐそばにはきっと、自分が気づいていない『誰か』や『何か』が支えてくれているはずです。 大丈夫、きっと大丈夫です。 自分を信じて生きていくことが必要な時代です。 ただ、自分だけでは不安になってしまうので、もう一つ支えてくれる何かを見つけられるといいと思います。 例えば、私の場合は『宗教的な生き方(実践)』であり、それは『仏教』や『禅』という思考や教えをベースとした生き方です。 難しい言葉ですが『自灯明、法灯明』という生き方かもしれません。  あなたの場合は何に支えられているでしょうか?  ご自身で考えてみる機会になれば幸いです。 自分で考えることで、自身が救われていきます。他人が示すことができる正解などはありません。 その答えが少しでも見出すことが出来たならば、次の一歩が、次に進むべき道が見えてくるのではないでしょうか。 合掌 【おぼうさんず💗ラブ 記事】 https://hasunoha.jp/article/mihotoke/52                        

質問者からのお礼

野村圭秀様 確かに煩悩や自我というものを現実の世界で生きていく上でゼロにすることというのは難しいことですし、確かにおっしゃるように生きていく上でどこかで必要悪であるのかもしれません。苦しみ悩んでいいんだよ、という言葉、すごく、すごく強くこころに残りました。ただ、そこで終わらずに、だから人生を一生懸命生きる、ということの大切さにつなげていかなければいけない。自分を許すことも確かにそう考えればその一部。そして、仰るとおり、自分を許すも許さないも本来はなく、、、ただ、自分に素直に今の有様を受け入れるのみ、、、それを自分に問う事自体が、私の間違いだったのかもしれません。してしまったことに対しては自戒をもって生きていくしか無い、悩み苦しみながら手を合わせていく、心を傾けていく、、その野村様の姿勢、そうあることができたら、と、本当に読んだ時にこころからそう思いました。自分を許せないことを問うのではなくて、悩み苦しみから逃れようとするのではなくて、悩み苦しみながら日々精進するように努力する・・・。もう一度、ゆっくりと考えて見たいと思います。ご丁寧なお返事をありがとうございました。

追伸:許す=苦しみからのがれる、と思うから、苦しいんだとふと思いました。苦しいことから逃れようとするから苦しいんだ、と、いま考えながら、気付きました。苦しいなら苦しんだらいい。苦しみながら、前向きに「生きれば」、苦しみや過去にとらわれないですむのかもしれないと。なにか見つかる気がしています。本当に本当にありがとうございます。

丹下覚元さま どんぶらこ川!(笑 思わず笑顔になりました。そして、確かにその瞬間、私のなかには赦すも許すもなくなっていました。自分がある意味で「意識的」に許そうとして赦すのではなくて心のなかで取り上げられていない真の赦し…自分が許そうとするから矛盾がおこる。許せることを考えるから放せない… 本当にその通り、です。赦すということに、自分が縛られて、とらわれていたことに気付かされました。・・・でも、どんぶらこ川からの漂流物に翻弄されずにいることは、なかなか難しいことです。その平静なこころを保つのには、いまの私には、意識的に川に目をやらないように、たえず前に進もうと後ろを振り返らないようにしないと難しいことのような気がしています。自分の意識を、かえていきたいです。ご丁寧なお返事、こころに残りました。いつも、本当にありがとうございます。

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