仏教徒・無宗教とは
疑問に思っていることがあり教えていただきたいと思います。
我が家では祖父の葬儀はお寺で行い、法事もしました。お盆には毎年迎え盆、送り盆を家族でしています。仏壇もあります。
自分の家の宗派も認識していますが、かと言ってそれ以外に仏壇にお線香を上げる等以外は日常で仏教的な事をしている訳ではありませんし、クリスマスを祝えば、神社にお参りする事もあります。典型的な日本人だと思います。
「私は仏教徒です」と言えるのはどういう場合なのでしょうか?逆に無宗教とはどういう状態でしょうか?身内が亡くなった際はどうしているのでしょうか。
仏教の本を読んだり仏像を拝観するのは好きですが、私の場合は無宗教なのか?と思ったりします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
多神教に明確な線引きはありません
「来世で良いところに連れて行ってくれるなら神様でも仏様でも誰でもいい」「良いことがあるなら誰でもいい」これが多神教民族の一般的な感覚です。室町時代ごろには神社とお寺の違いが分からないパンピーがそれなりの割合でいたそうです。「今日、お寺の鳥居をくぐってきたよ!」みたいな。
私は東南アジアでタイ仏教系の上座部仏教の修行経験があるのですが、あちらの方々の仏教への信心は熱烈なものがあります。にもかかわらず、ピーという土着の精霊信仰にも熱心です。ちょうど日本の神仏習合のような形ですね。
面白いのが、お坊さんとして出家するにあたって、ピーへのご祈祷をして修行の無事成就を祈ってから出家するのですよ。日本でいうと神式で祝詞をあげてもらってからお坊さんの出家式をするようなものです。あるいはインドでは「お釈迦さま?あぁ、ヒンドゥー教のビシュヌ神の24番目の化身ね」という感覚(笑)
本来、『仏教徒』というのはそのような多神教としてのよく言えばおおらかさ、悪く言えばいい加減さを含めた上でのニュアンスなのです。
「神を信じなさい。よその宗教に帰依してはいけません」のようなのは本来、一神教の論理であり、我々にとっては他人事です。こういう宗教観の汚染はバブル期ごろからでしょうね。もっと昔は一神教的な要素がある南無阿弥陀仏の宗派と多神教的な他の宗派の違いを落語のネタとして笑い飛ばしたりしており、昔の人は違いをわきまえていたことが分かります。
つまり、マリーさまのようなスタイルはとても伝統的な仏教徒の姿なのですが、現代日本人の宗教観が一神教に汚染され、実体と認識にズレが生じ、違和感を生んでいるということです。
だから胸を張って言いましょう。私は仏教徒です。
まずは本人の意識
ご相談読ませていただきました。
「私は仏教に関心があるけど、少ししか知らないから仏教徒とは言えない」と思う人もいれば「私は仏教に感心があるから、まだよく知らないけど仏教徒だと思う」と思う人もいます。どちらも間違いでは無いと思います。
「私は仏教徒です」と名乗るのは、まず本人の「私は仏教徒だ」という意識が大切ではないかと考えます。特別な資格だったり、他人から仏教徒だと認められることが一番ではありません。
付け加えるのであれば、仏様の尊さ・仏法の有り難さを感じられることですね。
特定の宗派への帰依の気持ちがあるなら、だいたいどの宗派も在家の方向けの仏門帰依の儀式を用意していると思いますので、それを受けていただくと良いと思います。
本来の無宗教は、「既存の宗教はどれも私の生きる支えとはならない」というある種の信念を持って生きている方のことを言うのではないかと思うのですが、日本の「無宗教」の多くは「宗教的に無関心・無頓着なだけ」のように感じます。本来は宗教行事であったものも、年中行事の一環のように受け止めて受容しています。無関心なだけなので、身内の方の葬儀も特に悩むこと無くウチの宗派を基準に考えることが多いでしょう(最近は無宗教葬というのもありますが)。
マリーさんは仏教の本や仏像拝観がお好きとのことで、既にそれが仏さまのお導きかもしれませんね。
質問者からのお礼
慈海様、大慈様
ご回答ありがとうございます!色々と教えていただき、スッキリしました。私は仏教徒なんだなと、思いました。これからもお寺や仏像を拝観したり写経したりしていきたいと思います。