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死にたくなった時はどうすればいいですか?

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私は難病ですが幸いこれといった症状がありません。
だから、通院に行ったら数値が悪くで即入院なんてことがよくあります。

私は入院が嫌いです。前は点滴や安静が嫌だったけど、今は時間が有り余って嫌です。
時間があるとだいたい死ぬことを考えてしまいます。

病気が発覚しないでそのまま死んでいればこんな思いしなかったのに。
今、あれをすれば即死できるかな?
点滴引き抜いて出血しできるかも?
病院だし麻酔とかで死にたいな。
医者なんかいなければ死ねたのに。
薬を使ってまで生き延びる必要あるか?

死にたくなって、他のことは手に付きません。
どうしたら死にたくならないですか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

死は誰もが必ず受けるも、自分から望むものでは無いのです。

前回、「過保護が過ぎて」のご相談にお答えしました。者です。

今までのお悩み、お礼の返事読ませて頂きました。
それから感じ取れる事は、思い通りに成らない心が自分を追い込んでいる事。
では何で思い通りにならないのか。周りももちろん原因はありますがご自分にもある事を自覚しなければなりません。
はっきり言ってお悩みを総合的に見て感じる事は小学生が我がままを言って困らせている様に思えるのですがその様に自分で感じた事、言われた事は無いでしょうか。
他の原因としてやはり貴女の病気が元で心配仕切りの親心から来る過保護です。
貴女は自分でも過保護と言われてますので分かっておられる。
しかしどうする事も出来ない自分の甘さが邪魔して先への一歩は踏み出せずそんな自分に嫌になり考えれば考える程自己嫌悪に陥るため希望か無くらり死を考えてしまい今では癖みたいになってしまい又それが耐えられない。

今の貴女の状態は貴女しか分からないけど私は貴女が可哀そうだと心より思います。
思い切って生きられない身体と心が可哀そうです。

四苦八苦(生きる時決して逃げられない苦しみ)の中に「五陰盛苦」の苦しみがあります。思う様に身体も心も成らない時の苦しみをあらわしてます。この苦はこの世の全ての人が受ける逃げる事の出来ない苦しみです。
苦を逃げる事無くしっかり受け止めれば真実が見えてきます。今の貴方には真実の道が見える事、苦との戦いです。

死は誰もが必ず来るもの受けるものです。自分から望むものでは無いのです!

また何時でも辛く成ったらお話しください。いつか嬉しそうな貴女のお話が聞ければと思います。

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有り難し
おきもち

生きて、喜びを見つける。

死に向かう考え自体良くないことです。
富士山をみて綺麗だと思う人あれば、知覚は寒くていやだという人がいます。
ガンになって気持ちが強い方と、まだ亡くなった訳ではないのにすべてが終わってしまったような気持ちでいる人がいます。
スイーツを食べて幸せな人も居れば、後悔して食べなければ良かった。食べる前から太る、高カロリー、虫歯になる、と後ろ向きな人もいます。
天気が晴れても雨でも幸せな人も居れば、晴れると暑くていやだ。雨だと濡れていやだという人も居ます。
もうお分かりかと思いますが、私にも病気があっても前向きでいます。
心を悪しき方向に向かわせる心の悪い働きを見つけてください。
一瞬です。
一瞬、悪い考えが怒って、すぐにそこにライドオンされているのです。
もう、今日から悪い気持ちが起きても流されない様にしましょう。
その為によくよく自分を見つめていてください。
自分の心の中で何が起こっているか。
それを見極めたものこそ、自分の心の中の悪い思いに負けないのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
親の過保護と私の甘さで悩みが大きくなっているというこどでしょうか?

ちょっと考え直してみようと思いました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ