hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

人は死んだら無になるのですか

回答数回答 4
有り難し有り難し 153

死とは苦しみからの旅たちなのですよね?
死んだら無になるのですか?

残された人は苦しみが増しますよね。
それは亡くなる人にとっても苦しみなのではないのですか?
ということはやはり死ぬことは苦しいことなのではないですか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

死んでも「無」にはなりません

 お釈迦様もお大師様もダライ・ラマ法王も、輪廻転生つまり生まれ変わりを説いておられ、死んでも「無」にはなりません。ダライ・ラマ法王です。「死とは古い衣服を着替えるようなものである。肉体が滅びた後も、生命そのものは無限の時間を生き続ける」御嶽山の噴火で重なり合うように亡くなられた恋人二人へ、多くの人々が「あの世でも一緒であって欲しい」と願うのは、私たちが二人は死んでも無にならないと直感しているからです。四十九日忌や三回忌などの法要を行うのも、死者は無にならないからです。亡くなられた方々を送る仕事をしていると、ご縁の方々と共に涙の中で感じとる人生の真実にも山ほど出会います。ソクラテスです。「私は本当に再生があるという確信を持っている。死から生命が生まれ、死者の魂が存在していると思っている」トルストイです。「我々が現世で無数の夢を見ているように、現世もまた無数の人生のうちのほんのひとつにすぎない。我々はよりリアルな人生から、現世へやってきて、死後、再び元に戻る。現世とはよりリアルな人生の夢の一つに過ぎない。その夢は果てしなく続く。最後の人生、真にリアルな人生、すなわち神の生命に到達するまで」ノーベル賞を受賞した物理学者ニールス・ボーアです。「意識は自然の一部、またはもっと一般的に言えば、事実の一部に違いない。それゆえ意識は、量子論の中に規定されているように、物理学や化学の法則とは全くかけ離れているということであり、我々は全然別個の法則を考えるしかない」
 詳しくは、ブログ『想いの記』にある「ダライ・ラマ法王『死の謎を説く』を読む」などをご覧ください。医師で小説家の久坂部羊氏はこう述べています。「死はごく当たり前のことで、死ぬ間際に取り乱したり、泣き叫ぶ人はいないし(病死や老衰の場合は、そんな力は残っていない)。死んだあとは、だれしも等しく安らかな表情になる。当人にとっては、死は目覚めることのない深い眠りと同じで、何も感じることがない。だから、恐怖もないのである」「死の恐怖が過剰になると、冷静な判断が鈍り、必要以上に健康と安全を求めてしまう。その結果、逆に健康を損ねたり、よけいな煩いを抱え込んだりしてしまう」「どうせ死ぬなら、上手に最期を迎える準備をしたほうがいい。そのために、私はかけがえのない『今』を大切に生きようと思っている」どうぞ真摯に生きられますよう。合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1600件を超えました


死そのものは苦しみではない

死は死です。そのものに苦楽はありません。
苦楽は人の心の中にだけ起こる一時的な思いです。
そこに苦しみを起こすのは、死を想う時にオプション的にマイナス・ネガティブイメージを連結、想起させているから苦しいのです。
あなたがこの質問を通して思う事を、自分で心の中をよくよく子細に観察なさることです。
「死」ということ自体に負のイメージは元々ついていませんし、お釈迦様も涅槃、静かにこの世を安らかに去られました。
死に対する俗人的なマイナス・ネガティブ意識を添えていないからです。
そもそも生活レベルでの死は沢山あります。
おさかなさんの刺身をさばくのも死。それを食すれば生。活かせば、活となります。
米でもタマゴでも野菜でも同じです。
しらずに食べている時には何の問題もない。そういうことを意識して食べると問題が生じる。
それは考えの上で物事を観ているからです。
ここからここまでをとらえて生と名づけ、死と名づけているのは人間の認識上の呼び名です。
無になると言っても、無にも何にもなりません。
死は死です。
その後その人の事を思う人があれば、交流は続いていきます。
無になるとか、終わりだというのも、あなたがそうさせているだけ。
あなただけの「考え」です。
川には終わりはないでしょう。海、雲、☂、川、無限のサイクルがあっての一杯のコップの水です。
お釈迦様は信で無になっていたらhasunohaも何もありゃしません。
死は終わりじゃありません。死に対して終わりだ、終局だ終焉だというネガティブなイメージを持つ人においてだけ、死は暗いものになるのです。
そうさせないために、日本にはお通夜や葬儀や供養、説法の場があるのです。
それを自覚することで大きな安心に目覚めることができるからです。

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1600件を超えました


丹下覚元(たんげかくげん)
かくげん和尚の電話おなやみ相談  📞08020659278 そのモ...

死とは苦しいですね

かじさん

あなたの問いかけから苦しみが
伝わってきます。

残された人は苦しいですね
そして亡くなる人にとっても
残していく人のことを考えると
苦しいと思います。

死とは苦しいですね

人は生まれたら必ず亡くなります。

それなのに、人と心を通わせたいと思っている。

人は必ず亡くなるのですから
人と通じ合えば
離れる時にとてつもない苦しみです。
しかし通じ合うことを求めている。

悲しい存在ですね。

今は本当に苦しいと思います。
その苦しみを無理やり納得したり
無理して受け入れよう思わず

一人になりたい時は一人になったり
親しい存在に聞いてもらったり
傍にいてもらったり
またhasunohaにも気持ちを表現して下さい

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1600件を超えました


死んだからといって、苦しみが無くなるわけではありません

かじ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

まず、死んだからといって、苦しみが無くなるわけではありません。死んで苦しみが無くなるのであれば、手っ取り早く皆、どんな方法でも構わないのでさっさと死ねば良いことになってしまいます。しかし、それは極端な暴論であり、邪見として仏教では退けることとなります。

以前にも下記のようにご質問を頂いておりましてお答えさせて頂きました。

問い「死んでしまったら無なんでしょうか? 」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1008538263.html

死後のことにつきましては、これまでに「無記」として回答を退けるべきか、あるいは、死後において存続する心(心相続・心の連続体)のありようについて述べるべきかという二点に関して扱わせて頂いて参りました。

下記の最近の拙論では、後者について、より積極的に扱わせて頂いておりますのでどうかご参照下さいませ。

「 死後について 」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1008841241.html

とにかく、私たちの代表的な苦しみとして八苦(生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会苦、 求不得苦、五蘊盛苦)の一つにもちろん「死苦」がございます。

釈尊は、これらに代表されている八苦の苦しみを無くすためにはどうするべきであるのかという教えをお説きになられました。それが「四聖諦」(苦諦・集諦・滅諦・道諦)という真理となります。

ですので、仏教を学び修していくことにより、それらの苦しみをしっかりと滅していくことに努力するのが私たちの目指すべきところとなります。

四聖諦につきましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いておりますので、ご参照頂けましたらと存じます。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/四聖諦

この機会からでも、より一層に仏教へのご興味をお持ち頂きまして、学びを進めて頂けましたらと存じます。是非、共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

おきもちが累計1600件を超えました


川口 英俊
チベット仏教 ツォンカパ大師中観思想・後期二諦説の研究

質問者からのお礼

さまざまなアドバイスを下さり、ありがとうございます。
私が死に対してネガティブな印象しか持っていないこと、苦しいと思っていることが、故人の死を暗く辛いものにしてしまっているのですね。
今日それがわかった気がします。
死で手にしたものは苦しみではなく、安らぎなんだと思ったとき、
心から良かったと思えました。
その人を苦しめていた肉体から解放されて、魂だけになったんだと思いました。逆にこれからはいつでも心のなかで会えるのですよね。

死が少し明るいものへと変わって見える気がします。

ありがとうございました。

「死後の世界・死んだらどうなる」問答一覧

私の声は、母に届いているのでしょうか。

こんばんは。いつもありがとうございます。 先日、うれしい出来事がありました。 早速仏壇に手を合わせ「お母さん、聞いて。良いニュースがあるよ」と言ったのですが、私の声は母に届いているのでしょうか? 母は、私の目を見ながら話を聞いてくれる人でした。「もう一回聞かせてくれる?」と耳をこちらに傾けてくれたりもしました。 でも、話を聞いてくれた目も耳も、今はありません。相づちを打ってくれる母もいません。母の肉体はもう、この世に存在しないからです。 亡き母に語りかける行為は独り言にすぎず、ただの自己満足なのでしょうか。 いくら語りかけても、母から返事はありません。「見えないだけで母はどこかにいる。話も聞いてくれている」と思ってはいても、ときどき虚しく、そして寂しくなります。 *** 追伸 hasunohaと出会い、日々救われています。 私の悩みを聞いて答えてくれる人がいる、と思うだけで安心します。本当にありがとうございます。 また、たびたび質問してしまいごめんなさい。「何度も投稿してご迷惑かな」と自覚しながらも、つい、甘えてしまいます。 今回も申し訳ないなと思いつつ、不安や寂しさがそれにまさり、投稿してしまいました。 それではお坊さんのみなさま、hasunohaを運営されているみなさま。季節の変わり目ですので、風邪を召しませんように。ご自愛ください。

有り難し有り難し 27
回答数回答 3

人は死んでも見ていてくれるのでしょうか

人は死んだら無になるのでしょうか。仏様になって私たちを見てくれてはいないのでしょうか。 幼い頃から大好きで大切だった祖母が最近、亡くなりました。私の家には仏壇が無いため(親戚の家にあります)、祖母の写真を置き、その前にお供え物をしています。祖母は亡くなるまでの半年間は食べ物や水を一切口にすることができませんでした(病院から飲食を禁じられており、栄養はカテーテルで摂っていました)。しかし本人はずっと「食べたい」「水が飲みたい」と言っていたのにそれが叶うことなく亡くなってしまったため、あまりにも哀れで、せめて天国ではたくさん食べてほしいと思い、お供え物をたくさんしています。けれど、ふと思うんです。こんなことをして、祖母は食べてくれているのだろうかと。人は死んだら仏だのあの世だの霊だのそんなものはなく、完全に無になるだけなのではないかと。だとすれば、毎日あれこれと飲み物や食べ物をお供えしているのは、単なる私の自己満足に過ぎません。それを考えると、虚しくなります。仏もあの世もなく無になっているのなら、お供え物もお墓参りも完全に意味の無い行為と言えます。ネットで色々と検索してみたら、霊感のある人は「ちゃんと食べてくれている」という意見を述べていたのですが、私には霊感がないので何も感じ取ることができません。 それに、祖母は20年以上前に亡くなった祖父のお墓参りをずっとほぼ毎日やってきましたが、祖父が見てくれていたようにも思えないのです。なぜなら、祖母は長年、体の不調に苦しみ続けていましたし、長文になるので割愛しますが最期の時もあまりにも惨めなものでした。よく「故人を思ってお墓などを大切にすると幸せになれる」ということを聞きますが、祖母は最後まで哀れでした。このことを考えると、やっぱり人は死んだら無になるだけで、それ以上は存在しない、つまり私たちを見てくれてはいないのかなと思えてしまいます。 難しい質問かとは思いますが、回答、宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 78
回答数回答 4

死後の世界について

最近死ぬことがとても怖いです。今私は20代でまだまだ先の人生があると周りに言われます。死ぬ時よりも死んだ後無になるのだと思うと怖くてたまらなくなり涙が出てきます。今は祖父母も両親も夫も健在で幸せな生活を送ることができています。だからこそこの幸せがいつか無になることが怖いです。また、時間には逆らえないので祖父母、両親が先に亡くなるのだと思いますが、自分が死んでから会えますか?お母さんは必ず迎えにくると約束してくれました。夫も死ぬからといって離れ離れにはならないし、ずっと一緒だと言ってくれています。ただ、死んだら怖いとか迎えにきてくれるとか、そのようなことも思うことすらできなくなくなるのでしょうか。意識が無くなり、思いや感情や記憶も全て無くなってしまうのでしょうか。怖くて仕方ありません。自分が数十年前はこの世に存在しなかったというのも不思議でなりません。死んでも幸せな時間が続くという保証があればきっと怖くなくなるのだと思いますが、そんなことは誰にも分からないし、だからこそ怖いという思いが無くなりません。これまで亡くなってこられた方々も生前にこのような気持ちを持ちながら生活し、気づかないうちに亡くなっていたのでしょうか。文章がまとまらずすみません。辛く、怖いです。

有り難し有り難し 14
回答数回答 2

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る