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人は死んだら無になるのですか

死とは苦しみからの旅たちなのですよね?
死んだら無になるのですか?

残された人は苦しみが増しますよね。
それは亡くなる人にとっても苦しみなのではないのですか?
ということはやはり死ぬことは苦しいことなのではないですか?

有り難し 91
回答 4

質問投稿日: 2014年10月5日 1:56

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

死んでも「無」にはなりません

 お釈迦様もお大師様もダライ・ラマ法王も、輪廻転生つまり生まれ変わりを説いておられ、死んでも「無」にはなりません。ダライ・ラマ法王です。「死とは古い衣服を着替えるようなものである。肉体が滅びた後も、生命そのものは無限の時間を生き続ける」御嶽山の噴火で重なり合うように亡くなられた恋人二人へ、多くの人々が「あの世でも一緒であって欲しい」と願うのは、私たちが二人は死んでも無にならないと直感しているからです。四十九日忌や三回忌などの法要を行うのも、死者は無にならないからです。亡くなられた方々を送る仕事をしていると、ご縁の方々と共に涙の中で感じとる人生の真実にも山ほど出会います。ソクラテスです。「私は本当に再生があるという確信を持っている。死から生命が生まれ、死者の魂が存在していると思っている」トルストイです。「我々が現世で無数の夢を見ているように、現世もまた無数の人生のうちのほんのひとつにすぎない。我々はよりリアルな人生から、現世へやってきて、死後、再び元に戻る。現世とはよりリアルな人生の夢の一つに過ぎない。その夢は果てしなく続く。最後の人生、真にリアルな人生、すなわち神の生命に到達するまで」ノーベル賞を受賞した物理学者ニールス・ボーアです。「意識は自然の一部、またはもっと一般的に言えば、事実の一部に違いない。それゆえ意識は、量子論の中に規定されているように、物理学や化学の法則とは全くかけ離れているということであり、我々は全然別個の法則を考えるしかない」
 詳しくは、ブログ『想いの記』にある「ダライ・ラマ法王『死の謎を説く』を読む」などをご覧ください。医師で小説家の久坂部羊氏はこう述べています。「死はごく当たり前のことで、死ぬ間際に取り乱したり、泣き叫ぶ人はいないし(病死や老衰の場合は、そんな力は残っていない)。死んだあとは、だれしも等しく安らかな表情になる。当人にとっては、死は目覚めることのない深い眠りと同じで、何も感じることがない。だから、恐怖もないのである」「死の恐怖が過剰になると、冷静な判断が鈍り、必要以上に健康と安全を求めてしまう。その結果、逆に健康を損ねたり、よけいな煩いを抱え込んだりしてしまう」「どうせ死ぬなら、上手に最期を迎える準備をしたほうがいい。そのために、私はかけがえのない『今』を大切に生きようと思っている」どうぞ真摯に生きられますよう。合掌

4年2ヶ月前

死そのものは苦しみではない

死は死です。そのものに苦楽はありません。
苦楽は人の心の中にだけ起こる一時的な思いです。
そこに苦しみを起こすのは、死を想う時にオプション的にマイナス・ネガティブイメージを連結、想起させているから苦しいのです。
あなたがこの質問を通して思う事を、自分で心の中をよくよく子細に観察なさることです。
「死」ということ自体に負のイメージは元々ついていませんし、お釈迦様も涅槃、静かにこの世を安らかに去られました。
死に対する俗人的なマイナス・ネガティブ意識を添えていないからです。
そもそも生活レベルでの死は沢山あります。
おさかなさんの刺身をさばくのも死。それを食すれば生。活かせば、活となります。
米でもタマゴでも野菜でも同じです。
しらずに食べている時には何の問題もない。そういうことを意識して食べると問題が生じる。
それは考えの上で物事を観ているからです。
ここからここまでをとらえて生と名づけ、死と名づけているのは人間の認識上の呼び名です。
無になると言っても、無にも何にもなりません。
死は死です。
その後その人の事を思う人があれば、交流は続いていきます。
無になるとか、終わりだというのも、あなたがそうさせているだけ。
あなただけの「考え」です。
川には終わりはないでしょう。海、雲、☂、川、無限のサイクルがあっての一杯のコップの水です。
お釈迦様は信で無になっていたらhasunohaも何もありゃしません。
死は終わりじゃありません。死に対して終わりだ、終局だ終焉だというネガティブなイメージを持つ人においてだけ、死は暗いものになるのです。
そうさせないために、日本にはお通夜や葬儀や供養、説法の場があるのです。
それを自覚することで大きな安心に目覚めることができるからです。

4年2ヶ月前

死とは苦しいですね

かじさん

あなたの問いかけから苦しみが
伝わってきます。

残された人は苦しいですね
そして亡くなる人にとっても
残していく人のことを考えると
苦しいと思います。

死とは苦しいですね

人は生まれたら必ず亡くなります。

それなのに、人と心を通わせたいと思っている。

人は必ず亡くなるのですから
人と通じ合えば
離れる時にとてつもない苦しみです。
しかし通じ合うことを求めている。

悲しい存在ですね。

今は本当に苦しいと思います。
その苦しみを無理やり納得したり
無理して受け入れよう思わず

一人になりたい時は一人になったり
親しい存在に聞いてもらったり
傍にいてもらったり
またhasunohaにも気持ちを表現して下さい

4年2ヶ月前

死んだからといって、苦しみが無くなるわけではありません

かじ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

まず、死んだからといって、苦しみが無くなるわけではありません。死んで苦しみが無くなるのであれば、手っ取り早く皆、どんな方法でも構わないのでさっさと死ねば良いことになってしまいます。しかし、それは極端な暴論であり、邪見として仏教では退けることとなります。

以前にも下記のようにご質問を頂いておりましてお答えさせて頂きました。

問い「死んでしまったら無なんでしょうか? 」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1008538263.html

死後のことにつきましては、これまでに「無記」として回答を退けるべきか、あるいは、死後において存続する心(心相続・心の連続体)のありようについて述べるべきかという二点に関して扱わせて頂いて参りました。

下記の最近の拙論では、後者について、より積極的に扱わせて頂いておりますのでどうかご参照下さいませ。

「 死後について 」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1008841241.html

とにかく、私たちの代表的な苦しみとして八苦(生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会苦、 求不得苦、五蘊盛苦)の一つにもちろん「死苦」がございます。

釈尊は、これらに代表されている八苦の苦しみを無くすためにはどうするべきであるのかという教えをお説きになられました。それが「四聖諦」(苦諦・集諦・滅諦・道諦)という真理となります。

ですので、仏教を学び修していくことにより、それらの苦しみをしっかりと滅していくことに努力するのが私たちの目指すべきところとなります。

四聖諦につきましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いておりますので、ご参照頂けましたらと存じます。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/四聖諦

この機会からでも、より一層に仏教へのご興味をお持ち頂きまして、学びを進めて頂けましたらと存じます。是非、共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

4年2ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

さまざまなアドバイスを下さり、ありがとうございます。
私が死に対してネガティブな印象しか持っていないこと、苦しいと思っていることが、故人の死を暗く辛いものにしてしまっているのですね。
今日それがわかった気がします。
死で手にしたものは苦しみではなく、安らぎなんだと思ったとき、
心から良かったと思えました。
その人を苦しめていた肉体から解放されて、魂だけになったんだと思いました。逆にこれからはいつでも心のなかで会えるのですよね。

死が少し明るいものへと変わって見える気がします。

ありがとうございました。

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