hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

縁を切りたい人がいます

回答数回答 1
有り難し有り難し 50

は三年前に再婚しました
お互いに再婚同士です

縁を切りたいのは夫の亡父の後妻(72歳)です

義父と不倫の果てに母亡くなった後同棲をはじめ15年程前にに入籍したようです

母は父の不倫を知り無念の思いを抱えながら23年前に53歳の若さで癌で亡くなりました

夫の身内はもとより後妻の身内も誰一人この結婚を祝福した人はいないと聞いています

父(享年83)は8年前に糖尿病の合併症で亡くなりました
後妻は夫の実家に独り暮らしをしております

折々実家を訪ねますが
その際後妻は、父と恋愛していた頃の話を楽しそうに
時には涙ながらに話してきます
母の無念を思うとそんな話を聞きたいはずがないことが解らず無神経極まりない事だと思いすし
許せません
あらゆる事に無頓着で無神経な言動をする人で
行く度に不愉快な思いをします
友達もいないようです

両親の遺影の下で寝食している神経も理解できません
あたしが同じ立場だったら父が亡くなった時点で身を引いたとおもいます

夫も義弟も後妻を両親のお墓には入れたくないと申しております
優しい兄弟なのでそれが細やかな抵抗なのだとおもいます

この人の老後の面倒を看るのも嫌ですし
これ以上かかわり合いたくないと思ってしまいます

後妻には空き家になっている自分の実家もあり住むこと食べることには困らないはずです

父の七回忌も済んだことですし、この際後妻には籍を抜いてもらいたいと思うのですが
こんな事を思うわたしは酷い人間でしょうか?

このまま静かにしているのが良いのでしょうか?

こんなことばかり考えてしまい自分が嫌になります
よろしくお願いいたします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

何を以て「縁を切る・縁が切れた」というべきか

ゆーなさんだけに、そんなことゆーなと言いたいですが実際、ホンットに嫌いなんザマしょねぇ。
(*'▽')わかりますわ。ですが、あなたも再婚なので自分に似たところを感じるから嫌いなのカモ。
実際、戸籍から外すことは難しいです。
気にすれば気にするほどトサカに来るので相手にしないことザマス。
案外計算高くて、その家を実効支配してるんザマショ。
その家も元々あなたのものではないですご主人はともかく欲しがらんことです。
欲しがってないでしょうが(´◉◞౪◟◉)ニヤリ。
他の事に気を向けている時は実質的に縁は切れているに等しいのです。
あなたがその義理のばあ様を思い起こした時だけ、縁が生じるのです。忘れている時は無きに等しい。
たとえば今、自分の持ち物であるはずの髪、爪、足の裏のことなど忘れていたでしょう。
自分のものでありながらも忘れている時には実質的に縁が切れているのです。
これを禅では忘ずる、無心といいます。
問題視すれば問題に「なる」。
黒いものをみないようにしようと思うと、かえって黒いものに敏感になり意識される。
全ッ然関係ない話ですが、エレキギターでギブソンという結構お高いブランドメーカーがありまして、ギターキッズたちはギブソンのギターを持つことが一つの憧れでもあります。
私の友達が「丹ちゃん、やった!ギブソンのギター手に入ったよ!」とウチに持ってきてくれたのですが、ロゴマークをみるとGIBSONではなくGIBBON(ギボン)でした。バッタもん、ぱっちもん、ニセモンでした。
「義母」と聞くと、いつもまがい物ギター、ギボンの事を思い出します。
あ、全然関係ない話でした。笑
こうして義母と全く関係ない話の時にはギボン(義母)とは縁が切れ、忘じていた訳です。坂本冬美さんの歌の歌詞にも♪いつまで待っても来ぬ人と死んだ人とは同じこと~♪というフレーズがありますが、今目の前にギボンはどこにもいないのですから、死んでしまったのと同じことです。笑
キライな人はあだ名をつけると心が軽くなります。ギボンとあだ名をつけてみてください。
ギボーン。うん。なんか少しどうでもよくなった気がしません?まぁ、つまり、心の中で相手を自分の思い通りにしようとか「わたくし化」させない修行が必要なのです。
すると、ギボン(義母)は、いつの間にか心の中いなくなって遠くにギボーンしてます。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます
考えないように努めます
考えないように考えてしまううちはダメですね(^_^)

追記
姻族関係終了届を提出すれば籍はぬけます

煩悩スッキリコラムまとめ