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人に嫌われてるんじゃないかと感じる

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有り難し有り難し 32

人と話すと、相手の反応を見て「嫌われてるんじゃないか」と感じて、その人と会うことが苦手になることがあります。

自分が好きな相手でも、思わぬ否定的な反応をされると、その人のことは好きだけど、そういう反応をされた経験がトラウマになって、「話したいけどもうあんな反応されたくない」と、心から何でも自由には話せなくなってしまいます。

だけど、好きだから話したい。
矛盾した感情で、余計普通に話せなくなってしまいます。

何とか自分の意識を軌道修正したいと、色々考えています。

最近思ったのは、今まで相手の反応が原因だと考えていましたが、本当は自分に原因があるんじゃないか、ということです。
ここまでは思い至ったのですが、そこから先に考えが進みません。

人の顔色を窺い過ぎなのか?
対人関係に「こうあるべき」という思いこみがあるのか?
自分に自信がないのか?
人から何かしてもらうのを期待してばかりで、何も返せてないのでは?

色々思い付きますが、まだしっくりくる結論が出せません。
何かアドバイスを頂ければ幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

失うことを恐れているだけ

嫌われることを恐れてはいけません。
と、その前に、嫌われたからと言って何かが減るものでしょうか。
それは錯覚です。
何も減ってはいません。なにも損なうこともありません。ケガもしません、血も出ません。
お釈迦様であっても万人から好かれることも不可能。
そもそもあなたが嫌われることを恐れている、という表面的な事より、その深層にある「自分が本当に恐れているものが何であるか」を知ることが重要なのです。
それは、あなたの中のマイルール、マイ都合が壊れているだけなのです。
ご自分に原因があると仰いましたね、(/・ω・)/それは素晴らしい気づきです。
その通りです。
自分に事前設定があるものなのです。
人とうまくやっていたい、人と波風立たせずに過ごしていたい、というマイルールが事前にあなたの中で設定されているのです。
今日から、嫌われる勇気を持ってください。
あなたが他人の顔色をうかがって波長を合わせて生きていくことはあなたにとってストレスにつながります。
あなたがやっていることは、相手の反応を恐れているのではない。
相手の反応に、あなたがネガティブ反応しているだけです。
もう一度言います。
相手の反応が自分の望むそれと違うことに対して、ガッカリ感、損失感、寂しさを感じてシュンとなっているのでちゅ。
だから、相手の反応に一喜一憂したり、相手の反応に永遠性を求めず、相手の反応は相手の都合や状況によって変わっているものんである事を自覚なさってください。
そうすることで、相手を自由にして挙げられます。あなたが相手をワタクシしなくなるから、接し方が変わります。尊重の在り方が変わります。
人と話していて嫌われるっ、と思った時、私の話を思い出してみてください。
「ああ、これがマイルールなのだ」と。 
ちなみに、私なんか他の回答者からも煙たがられてこのhasunohaでも浮いていますが、何か。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼コメントを色々推敲しましたが、うまく表現できませんでした。すみません…。お礼の言葉で代えさせて頂きます。
ご回答ありがとうございました。

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