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謝罪の手紙

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以前、仲直りする方法を相談したものです。

先週手紙を出しました。「久しぶり、元気だった?
あの時は本当にごめんなさい。二度と連絡しませんとか言ってしまってごめんなさい。あれからずっと後悔と反省の日々で深い傷を与えてしまって本当にごめんなさい・傷つけてしまって...あのときそっとしとけばよかったね。
怒りにまかせてあんなこと言って本当に心から反省しています。それと約束を破ったこと..
きちんと言ってから消えるって言ったのに自ら破ってしまって本当にごめんなさい。最近キャラ崩壊気味でTLで歌詞(XJAPAN,GACKTの歌詞)や独り言を言って不安や不満があったと思う
本当にごめんなさい。 最近、母親のストレスがまた大きくなって違う病院で診てもらったら認知症だって言われてそれのストレス、家事、仕事それが重なって貴方に深い傷、恐怖心を与えたこと。私が貴方に対して八つ当たりメールをしたことに本当に申し訳ありませんでした
私は9月3日に誕生日を迎えてから体調が思わしくなく、(背中ににきびの親玉ができて背中からおしりにぶつぶつと腫瘍が大きくなり麻酔をかけて6針縫って、それが終わったと思ったら親知らずがまた生えてきて、そしてインフルにかかり今日やっと体がよくなってきた)
だから、前に貴方がたとえ消えても残ったとしても必ず連絡頂戴?それで私は信じて待ってられるから(喧嘩する前のメール)今日、手紙を書きました。 私がメールで返事まってるねと言ったことも謝ります。嫌な言葉だったね本当にごめんなさい。私が自分勝手な行動、妄想的な
言葉、貴方を傷つけたことに深く心から謝ります。一人にさせてごめんなさい」と書いたのですが・・ いまだにツイッタ―、手紙の返事はなしです・・。多分彼女の中では今さら手紙を書いてきて何を考えてるのとか仲直りする気はないとか思っているんでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

求めがあなたに苦しみを生む

詫びるべき事は詫びられました。
なすべき事をちゃんとなされました。
あなたなりの精一杯の謝罪をなされました。今後はあまりアナタ自身を出しすぎない、主張しないで待ちながら自らを慎むことです。
謝罪というのは、こちら側の事情をあまり出さずに純粋に謝るだけで良いのです。
言い訳がましくなりますゆえに。ゆるされなくても腹を立ててはいけません。それでは謝罪ではありません。
自分が強い、自分のことばかり主張していると、謝罪ではありません。相手に謝罪とは受け止められません。たとえ相手が許してくれなかったとしても、それはあなたの今度の人生のアナタの自我との戦いなのであると受け止めるべきです。
慎むべきは、自分を認められたいと思う心。
あなたの主張ばかりを伝えると重たく感じる部分もあると思います。
あとは、相手次第です。
赦してもらおうなどとも思わないことです。
謝罪することはし謝罪することだけで、それ以上を願い求めないことです。
思い通りにはならない。思い通りにしようとしてもいけない。
あなたが今回気づくべきことは、自分も相手も、世の中も自分の思いや願いとは無縁な在り方として存在している❝無我❞なる相ということです。
それを自覚することが己を離れ、苦しみから救われていく仏道の始まりなのです。
あなたがあなたを生きる事です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

誠意を込めて謝罪しても、相手の心は?

 数年前のことです。私はA寺のB住職さんと或る企画を練っていました。その企画の実現のために、「Cさんという専門家に依頼しましょう。」という提案をB住職さんにメールで送信しました。B住職さんから返信のメールが来ました。「いい提案ですね。賛成です。Cさんには私もお会いしたことがあると思います。Cさんは一応〇〇の専門家ですから、企画への協力をお願いして良いと思います。」という文面でした。私は「B住職も賛同してますので、是非企画にご協力ください。」とコメントを添えてB住職のメールをそのままCさんに転送しました。
すると、Cさんから「一応とはどういう意味でしょうか?自分は〇〇の専門家としてそれなりの仕事をしてきたし、それなりの業績を残してきたつもりです。あなたたちに、一応と呼ばれる謂れは無い。」というメールが来ました。私は慌てて非礼をお詫びし、B住職さんからも「一応」と書いたことを謝罪してもらいました。しかし、Cさんの怒りは収まらず、結局私とB住職さんの企画は駄目になってしまいました。

私としては誠意を持ってCさんに謝罪し何とか仕事の依頼を考慮してもらいたいとお願いしました。でも、結局駄目でした。依頼を受けて貰えなかったことには別の要因も有った事が後日わかりました。しかし、私の謝罪には「一応という言葉をそのままメールしたのは確かに私の落ち度だ。軽率だった。でも、もっと当方の依頼の内容を真剣に読んで欲しい。言葉尻だけで、あまり拘泥しなくても。」という気持ちが入っていた、今振り返ると、そう思います。その時は、「何とか企画の実現を。」という気持ちだけが先走っていたと思います。

そんな私ですから、あなたの謝罪の手紙についてコメントは出来ません。ただ、私の経験上、誠意を持って謝罪したつもりでも、「誠意を込めた」という自分の思い込みに過ぎない場合もあります。誠意を相手に伝えても、相手の心が動く場合も有れば、動かない場合もあります。今直ちに相手の心が動かなくても、後日動くこともあります。すぐに修復できるとは思わず、時間をかけて修復に努めてみましょう

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個別相談可能
 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努めております。決して容易いことでは有りませんが、一期一会の気持ちで相談に、葬儀法事に励みたいと思います。    最初法学部部にで学び、4年間ほど公務員をしていました。(税務署勤務)その当時の学びと経験を終活相談に活かしたいと思います。                                              昭和63年5月に住職となってから、30年が過ぎてしまいました。仏教学・禅学もそこそこ真面目に学んだつもりですが、宗教学・宗教民俗学に力を入れて学びました。そういう分野については丁寧な回答が出来るかも。
一人一人の気持ちに寄り添い、傾聴に徹して、心をほぐしてあげられるよう、努めたいと思います。 それと同時に、完璧に出来るとは限りませんが、其の人が歩むべき方向を一緒に考えてあげたり、次の一歩を踏み出せるよう背中をおしてあげられるよう、努めたいと思っております。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ