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先のことばかり考えて不安になります。

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先のことばかり考えて不安になります。

まるで、心配することを毎日探してるような…

どうすれば、この状態から脱却できるでしょうか?

またなぜ、このような状態になるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

過去と未来は無い

過去というのは記憶です。
未来というのは推測です。
ともに今現在の思いの中の世界ですわ。
現実を生きる事をしていないと過去や未来におびえ、現在を損ないます。
何故、過去と未来は無いと言えるのか。
無いというより❝体験❞ができないのです。
何故なら目にも映し出されないし、耳にも聞こえていないからです。
現在だけが永遠に事実です。
ですが、あなたはその現在をも「思い」「考え事」に費やしている。
考え事は事実ではありません。
考え事だから未来にも過去にも遡れます。
ですが、思いは事実ではありません。
私は、事実を生きる人間です。事実を生きる事しかしません。それが仏道だからです。
それが修行というものだからです。それが思いから抜ける心の在り方だからです。
世間ではこう言います「いまをいきる」と。
理屈でわかるだけではだめです。
今を生きよう、じゃない。
この身心が何時でも今と共にある事を自覚することです。
眼にはさっきは映っていない。眼にはこれからも映っていないでしょう?
耳にはさっきの音は聞こえていない。耳にはこれからの音も聞こえていない。
自分自身が思いにばかされてしまっていたことに気づいて頂きたいと思います。
「いま」といっても「い」の時に「ま」は無く、「ま」のときには既に「い」は終わっている。
だから「今をいきろ」なんて安っぽいベタなことは言いまへん。
眼はいつでも「いま」のことしかない。
耳はいつでも「いま」のことしかない。
先のことなんざ起こったためしがない。
過去のことなんざ再び現われたためしがない。
そういう正しい道理を知る事です。
思いの世界に旅立たんよう、祈ります。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

過去・現在・未来について

ぬぬぬ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

まだ来たらぬ先のことにとらわれて不安となられておられるご様子・・

丹下覚元様のご回答ともほとんど同じことになりますが、実は、未来も、過去も、そして現在も、観念的なものであり、実体としては存在しえていないものでございます。現在も現実には時間が止められない以上は、次の瞬間に過ぎ去ってしまうものでしかありません。

時間論につきましては、これまでにも下記の問いにてもお答えさせて頂いておりますが、私たちは「現在の一瞬(一瞬の連続体)でしか生きていない」のでございます。

問い「現在の一瞬だけを強く生きるコツ」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002967103.html

『・・過去がなければ、今の自分はあり得ません。更に今の自分が無ければ、未来の自分も可能性としては有り得ないことになります。過去と現在の自分は明らかに繋がっている、また、現在の自分は未来の自分とも繋がっていくものと言えるので、異なってはいないのだけれども、もちろん同じとも言えません。このことを難しいことですが、「不一不異」と言います。・・』

『・・結論的には、つまり、「現在の一瞬(一瞬の連続体)でしか生きていない」自分のありようを理解すると、自ずと、この一瞬一瞬に集中して、大事に大切に過ごしていけるようになるのではないだろうかということでございます。・・』

ただ、この「現在の一瞬一瞬の連続体」は上記にも書かせて頂いているように、過去と、そしてまた未来とも繋がりはございます。但し、その繋がりには、「因縁」が必要となります。因縁とは、原因と条件のことですが、ぬぬぬ様が生きている今の瞬間でも、当然に生きるための因縁が欠かせずに必要となります。簡単なことでは、例えば怪我や病気や老いの状況によってはその(肉体的な)生きる因縁が調わなくなり、今の肉体を未来へと繋げることができなくなってしまうこともございます。

もちろん、仏教では相続していく心のありよう(心相続)を特に重要視して扱いますので、厳密には続いていくことにはなります。その相続が、より善いものとなるためにもより善い行いが何よりも必要となります。是非、共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

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