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念珠をなくしてしまいました

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昨日、結願のお礼参りのため高野山に行ってきました。
高野山の空気に触れ、とれも清々しい気持ちで帰路についた次第であります。

ところが帰宅をし荷物を整理した際に、念珠がなくなっていることに気が付きました。朝の勤行の時に持っていたのは覚えているのですが、その後どこに置いたのかまったく思い出せない状況です。

5年近く一緒にいてくれた(区切りうちで四国を巡っていたため、恥ずかしながらこんなにも結願までに時間を要してしまいました)念珠をなくしてしまうなんて、何と罰当たりなことをしてしまったのかと気落ちをしています。
物に執着することは良くないことだとは思うのですが、「物」というよりも5年近く側にいた友人のような感覚があったため諦めきれない気持ちが強いです。一緒に四国を巡ってくれた念珠に対して、供養することもせずなくしてしまうなんて、どのようにしてその念珠に対して報いてあげればよいのかと悩んでいます。
また、見つからなかった場合に新しい念珠を購入することになるとは思うのですが、それさえも今まで一緒にいてくれた念珠に対する裏切りではないかと思ってしまいます。今後、私はどのようにすれば良いのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

新しいものを買う前に

いずれにせよ、執着を無くすべきはずの仏教関係グッズで執着が起こったらお釈迦様もシュンとしますわ。
仏教はそういうことから離れていく生き方、教え、実践道ですによって。
数珠を無くしてロス感情が起こった。
これがあなたの今現在、現時点の真実です。(そういう態度で信仰をしてしまっていたということ)
よい機会であると思いましょう。
こういうことをこそ本当に本道に向かわせる機縁とすることでアナタの人生が大きく変わるのです。
私がここでお慰めをするようなことをすれば、あなたにインチキ仏教をお伝えすることになりますので一切お慰みはいたしません。
新しいお数珠を大切になさることです。
数珠が無くなった、あなたに喪失感が生まれた。それこそ数珠からの授かりです。
あなたに、人生において、数珠という物質を守る、というスタンスを失わせ、もっと大切に、大事にするべき心の在り方とはいかなる心か。
これを身近な人の死ということに代わって教えてくれたとお考えになる事です。
物は持つにしてもみずからを苦しめる程に❝持つ❞もののではありません。持たれるものではありません。ものに所有されるべき態度であってはいけません。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

数珠の紛失について

じゅん様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

この度は、大切になされてこられたお念珠、お数珠を失くされてしまわれたとのこと・・誠に不安な気持ちをお持ちのご様子をお伺い致しました。色々な想いが強くおありで愛着あるものほど、失くしてしまうと本当につらく悲しいことでございます・・

数珠は本来、字の如く数を数える珠ということであり、お経の回数、真言、念仏の回数を珠をたぐりながら数えるために用いられたのが始まりと言われております。単純に仏具として考えて頂けますと買い替えもスムーズかもしれませんが、お守り的な感覚を持ってしまったり、じゅん様のように何らか特別な愛着が生じてしまっておりますと、やはりなかなかすぐに新しいものをとは思えないのも理解できるところでございます。

もちろん、届けられて保管されていることや別の鞄のポケットなどへの仕舞い込みなどもまだ十分にあり得ますので、しばらくは探されて、それでも見つからない場合には、結願を期にそのお数珠は一つの役割を終えられた、または、お大師さんにお返ししたのだとでもお考え頂きまして、何かをきっかけ、吉祥として、一区切りを付けて、新しい数珠を調えられてはどうであろうかとも存じます。例えば、誕生日や新年、釈尊降誕会やお大師さんのご命日など。

また、数珠とお守りでは少し違いもありますが、お守りを失くされたことについての過去の下記各拙回答もご参照頂けましたらと存じます。

問い「御守りをよく無くす。壊れる。」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1008376287.html

問い「厄除けの御守りを紛失してしまいました…」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1005744674.html

問い「古いお守りを全て紛失してしまいました…」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002960031.html

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

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