こんなわたしなら生きていなくても同じ。
何をしても達成感がなく、自信ももてません。
この世は生かされているとおっしゃる方もいますが、こんなわたしなら生かされなくてもいいと思います。
いつまでも結婚できなく、この先もひとりなら、今いなくなっても同じだと思います。
誰の役にもたってない、むしろいることが迷惑。
考え方は悲観的で、人と比べては落ち込みます。
誰かに認められたかった。私には無理なことなのでしょうか。
生きている意味がわからなくなりました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
うちに相談にきた、十代後半の方がおります。
人生は無駄なのに、なぜ生きなければならないの?
と、人生への悲観を吶々と話されました。
わたしはその方に「無駄」のはなしを致しました。
無駄というのは、もともと「荷物を載せていない馬」の
ことです。荷物をのせようがのせまいが、馬は馬です。
でもそんな馬も荷物を載せればたちまち「荷駄(にだ)」になります。
ですから、無駄の間だってごはんをたべさせるし、
時折は走らせておかないと、いざ荷駄の時に、歩けなくなったり
しても困るのです。無駄という時間も、荷駄の為には大事な時間
だということです。
人生は無意味だと思っている時間も、同じではないかと思うのです。
それは、いつかあなたの人生でなにかしらの荷物を載せた時に、
いまの「人生は無意味だ」と思っていた時の経験が活かされる事が
あるかもしれないからです。
いま、苦しんでいる時間というのは、実はもっとも自分を見つめ、
自分を知る時間でもあります。
大丈夫。かならずあなたが活かされる時が来ます。
「白雪姫は、悪い魔女によって永遠の眠りにつきました。終わり」
ではないのです。人生は無常。常ならないのです。
いまのままであるはずがないのです。
今の状態で留まりたかったらそれでもいいと思います。苦しみが
続くだけ。でも、なんとかしたい!と思うのでしたら、
歩きましょう。あなたを磨く為に。あなたを活かしていくために。
本をよむでもいい。まちにでて、物にふれるでもいい。
お寺にきて、しばしゆっくりすごすでもいい。
すべてがあなたにとって、だいじなだいじな「無駄」の時間です。
次に役立つべきにもつを背負うために、歩きましょう。
それがあなたをより多くの「出会い」へと導いていくことになります。
うちに相談にきた方は、休みになると、沿岸部を歩きに行っているそうです。
茨城の沿岸からはじめて、一日に三十キロ歩いて、そしてまた電車で家に
帰ってを繰り返し、いまは青森までいって、逆向きにまた歩きはじめたとの事です。
沢山の出会いがあって、いまは仕事にも出会い、楽しそうです。
「無駄」を歩いたからこそ出会えた、とのことです。
あなたの善き出会いにさちあれ。さちあれ。
はじめまして。亀山純史と申します。
生かされなくてもいいと思っても生かされている自分に気づきましょう。
たとえ呼吸しなくてもいいと思っても呼吸をしている私です。生かされているということはそういうことです。生かされているところに私の意思はなく、まさに無我なのです。無我だからこそ生かされなければ生きることが出来ない私なのです。
様々な因縁によって、今こうして私は人としての命に恵まれたのです。そして、その命も様々な因縁によって育まれていくのです。決して、私一人の力や意思で、私は生きてはいない、生きて行くことは出来ないのです。
さて、人の価値はどこにあるのでしょうか。誰かの役に立つか立たないかにあるのでしょうか。もしも人の価値がそのようなところにあるならば、介護を受けている人に価値はないのでしょうか。介護職に就いている人は、価値のない人の世話をしているのでしょうか。
人として命を授かったこと自体に、大きな価値があると思います。
「人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。」(三帰依文より)
あなたがこの世に人として命を授かったことに、仏様は微笑んでおられることでしょう。そして、生きていることに対しての意味は、生かされている自分に気づくところに見出されるのだと思います。
以上が私からの回答です。少しでもお役に立てれば幸いです。
お二人様、まとめてのお返事で申し訳ありません。
今生きていることにはなにか意味があるのですね。
無駄ではないということがわかりました。
少しずつ気づいていけたらと思います。
ご丁寧な回答ありがとうございました。