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実母の存在を感じないところに行ってしまいたいです。

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こんにちは。3回目、お世話になります。
1回目の質問のとき、実母について「被害者意識から立ち直ること」とお教えを頂きました。
でもあのときのお坊さんの回答に心が救われて、前を向いて生きて行こうと思えるようになっていました。
それが最近、また実母に苦しめられる日々が続いています。
一番苦しいのは周りの人(近所・親戚・兄の支援者)の悪口を延々聞かされます。
最近のこともしっかり覚えているので認知症ではないと思いますが、被害妄想だなとはっきり分かります。
と言いますか、母は若いころからマイナス思考が強く、いや43年生きてきて母以上にマイナス思考の強い人に出会ったことはありません。
1つ例を申し上げますと、学生の頃、私はある賞を頂きました。
それを母に言うと頭をかかえて「あーっ、もうそんなウチに良いことばかりあるはずがない!今度は絶対不幸が起きる。起きるに決まってる。」と鬼の形相で言われました。
話は戻りますが、最近の話を聞いていると、人の善意をちゃんと受け取れない母が悪いだけだと思います。
けれどそれを言うと、今度は私に怒鳴り散らします。
だから沈黙をすると「親の言うこと、ちゃんと聞いとんのか!」と怒鳴り散らします。
私は先月、とうとう持病が再発しました。
それで目が覚め「電話に出ない」という決断をしました。
そしたら最近、嵐のように着信を入れてくるようになりました。
私は主人にお願いし、体調が悪いから遠慮してほしいと頼んでもらいました。母は主人の前では泣いて「私は話がしたかっただけなの」と言ったそうです。主人はその涙に騙されて「お母さんが可哀想」と言ってました。
が、翌日、母は電話をかけてきました。
「昨日の電話を忘れるほど呆けた」と思いましたが、ちゃんと覚えていて「お母さんだって調子悪いんじゃ!」と恫喝の嵐。
もう殴りに行こうとさえ思いました。でも体が動きませんでした。
私が再度、着信拒否を続けると、母は主人に電話をするでしょう。主人が着信拒否をすると主人の親にしかねません。
主人は電話に出るべきと言ってます。
けど母の存在を感じるだけで、前向きに生きようと思っていた私の心が澱みます。そして母と揉めた近所の人や親戚まで私に助けを求めてきます。
言葉悪いけど、はっきり言います。
この母を私はどう扱っていけば良いと思われますか? すみませんが教えて下さい。疲労困憊です。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

母親は子供を、子供は母親を所有してはならない

まず生物界のルールとして、母親は子供が幸せに育てることが義務と言えます。
ところがその母親が巣立ちを終えた子供に対し何時までたってもワタクシ・エネルギーをむき出しにして、オラのワタシのアタシの子、と子供をあたかも所有物かのようにとらえるのは明らかに母親としての生き方を誤っています。おつらかったことであろうと思います。(;´・ω・)カワイソウニ
でも、まずお母ちゃんも、冷静に客観的に憐れんであげてください。
何故かって、おそらくはそんなネガティブな考え方になるということは相当悲惨な人生を歩んでこられたとしか言いようがありませんよね。心の中は地獄だったと思いますよ、母ちゃんもカワイソウニ…。
だから自己防衛意識が強くはたらいてしまうだけなんです。
これ以上の不幸を避けたいのでしょう。もう生きるということに心配をさせないように、上手な距離感を取りましょう。近くだったら親子で坐禅会かご相談にお越しください。とげぬきします。
まず親から子から本当の意味で自立、独立、対等になることですよ。それぞれが、互いにわたくししあわない、独立、精神的な出家をなさるべきです。
遠離という言葉がありますが、空間的に離れるというより、その人に対する、ワタクシ的干渉を打ち止めにするのです。
「私❝の❞母」「私❝の❞娘」という「の」の所有意識、所属意識、OWN意識が強すぎるのです。
互いにもっと放っておける人間になりましょう。
母親の影響力というものはインナーマザー・コンプレックスという言葉もあるくらい永久に付きまとうものです。
およそ多くの人は長年この親として影響を与えてきた内なる母の記憶に対峙している傾向にあります。
リアル現実目の前マザーにのみ、その都度対応していくと良いと思います。
自分の思いの中のお母ちゃんは、確かにあなたを傷つけてきたにせよ、もうニセモノであり、キオクであり、あなたの母への❝想い❞がイメージ化されたものでしかありません。
あなたが対峙していたのは、過去の記憶の蓄積のあなた自身のネガティブ意識を加えたインナーマザーであって、アウトサイドの現実の母親は、今、別のところで、あなたの思いとは無縁に呼吸している存在なのです。自分の思いの母親とのみ、ちょうど良い距離感、車間距離を保ち、現実の実物の母親は毎度毎度変わっていますから、実物、実際の態度とのみ関わればよいのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様
お礼が遅くなり、申し訳ありませんでした。
「生きることに心配させないように」…今、この思いだけで接しております。
そうすると多少、ほんとに微々たるものですが母は穏やかになりました。
適度な距離を保ち、残りの人生、生きることに心配をさせないようにしてあげたいと思います。
本当にありがとうございました。

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