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なぜ人は負の感情に陥るのでしょうか

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自分はきついことを言われるとすぐに落ち込みます。そして立ち直るのが人より遅いです。多分傷つきやすいのかも知れません。もしかしたら傷つきやすいと思われたいのかも知れません。

時々きついことを言われた時にそういう時だけ感情のないロボットになれたらいいのにと思うことがあります。でも現実はそうはいきません。

きついことを言われた時心が傷つかない方法は色々試してみました。例えばきついことを言う人はそういう言い方しかできない残念な人なんだと心の中で哀れんだりもしました。しかしいざきついことを言われると理屈よりも先に語調の荒さが自分の精神を痛めつけるのです。

そして本題に戻るのですがそういう思いをするのならなぜ人は負の感情に陥るのでしょうか。そしてきついことを言われたらどういった心構えでいればいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

妖怪ジガニャンのしわざです。

人間には誰もが妖怪自我ニャンが憑りついています。
この妖怪に憑りつかれると人は、
・自分中心になります。
・自分の都合ばかり考えます。
・自分ラブになります。
・自と他を隔てます。
・自意識過剰になります。
総じて、自我の働きが強くなります。
あなたがやっている事は、負の思いを起こしている云々の前に、
➀出会った出来事や相手
➁…に対する思いが起こる
③そのとき、自分の思いをオプション的につけ足す、つけ加えているのです。

ここで重要なのは➁の思いが出てきた時です。
➁の相手に対する思いや感情などは出てきて良いものなのです。
それは私的ではなく、オフィシャル、公的なものなのです。
「ああ、この人、言い方超~きっついわー」
「感じ悪ぅー」
「むかつくわー」とか思ってもいいのです。
ただし!その直後、あなたは➂の自我をさらに二重三重に加えているのです。
この➂が物事を枉げる、捻じ曲げる、歪曲させる人間に憑りついた妖怪ジガニャン=自我です。
言い方を変えると、自分の都合的解釈、自分の独断、偏見、先入観。私見、妄見、我見を付け加えているのです。
今後、そこに気づいてみましょう。
今もやっているはずです。
多くの人間は、そういうものなのです。
ミスだ、ロスだ、イヤ、こんな考えしていること自体、人生のロスだ…などと、いう私見を加えないで生活する事こそ大切ですが、上手にプラス、ポジティブな私見を加えるという方法もあります。
そもそも、およそ人間を苦しめるたぐいの思いは、損失感、喪失感。
出来事、状況は他の人にとっても同じことであっても、喪失感、損失感を強く添える人は、自らの損失、マイナス、ロス、ヘコマス意識によって、自らを削る、そぐ、減らす、損ねる、凹ませるのです。
じつはそれは自分の選択でもあります。
ほかの選択肢をご存じないだけです。
たとえば「悩む」というあなたが取っている選択に「これ以上悩む必要性があるかorないか」を付け加えるだけでも、悩まない方向へ進むことだってできるのです。
人は、なんとなく自分の心地よい方を選択する生き物です。
何故か自分が不憫になる方を選択することがあるものです。
一刻も早く、まず、❝そこにとどまる事をやめる❞という選択をして見てください。
そして、もう一度➀➁➂のしくみをよく観察して、➂を即座にストップする努力をなさってください。、

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

心が悲鳴をあげているのだと思います。

取り柄がないさん

きついことを言われて
落ち込んで
傷ついているのですね

名前からも
言い知れぬ苦悩が感じられます。

今のあなたは
きついことを言われて
心が悲鳴をあげているのだと思います。

気にしないとか
自分のためを思っていってくれているのだと
心構えでどうにか出来る状態ではないのでしょう。

現実に精神が痛んでいる。
自分の声に耳を傾けていきましょう。

どなたに、どんなことを言われているのでしょうか?

自分自身に原因があると
思うのであれば改善しましょう。

そうではなく理不尽なことを
言われているのであれば

言われたままになっているのではなく
何かを変えていきましょう

具体的な状況が分からないので
あくまで例示ですが

距離をとれるなら距離をとる
口調がきついので変えてくれないかとお願いする
第三者に助けを求める

またその方にきついことを言わせている
別の理由があるのであれば
そこ見出していきましょう。

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おきもち

質問者からのお礼

明福寺中野様

質問への回答ありがとうございました。きついことを言われる状況は色々ありますが自分のミスでそうなるところもあります。ただ、小さなミスに対して必要以上に攻撃的になってくる人がいてそれがやる気をそいだりさらにプレッシャーになっているというのが現状でしょうか。

これからも自分のできる範囲内で改善していこうと思います。

中野様→中根様

でした。誤字失礼致しました。

安穏寺丹下様

質問への回答ありがとうございました。
正直なところ自我というものが働いているという考えは私にはなかったので目から鱗が落ちました。

自分は劣等感が強い人間なので自分を愛したことは多分ないと思いますし気の弱い人間なので俺様的態度で誰かを威圧したこともないですしそんなことできません。なので自己中心的になったという感覚がないのですがそれはもしかしたら自己中心的の氷山の一角なのかも知れないですね。傷ついたからその傷を誰かにわかってほしい、それもまた自我ということなのでしょうか。まだまだ未熟者なので完全には理解できてはいませんが。

回答の中にあった自分の思いを付け足すというのはまだどこまでがそれの範疇になるのか分かっていないところもあります。物事や言動が起こる、思いが起きる、その物事を受けて自分がどうなったかを敢えて出さないというのは自分を押し殺すような感じもしました。もしかしたらそういうことじゃないのかも知れませんが。

最後に悩む以外の「これ以上悩む必要性があるかorないか」を付け加えることに関してそういえばたまにメーターが吹っ切れてどうでもいいと思うことはあったなと思いだしました。もしかしたらそれが糸口なのかも知れないですね。

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