「輪廻転生」と「お盆」
昨晩、布団に入り輪廻転生について考え出したら、なんだかとても恐ろしくなって眠れませんでした。そんな夜明けにふと思ったのですが、仏教では「お盆にご先祖様が帰ってくる」と一般的に言われてますが、この考えと輪廻転生の仕組みは矛盾しませんか?
魂が分裂したり並行宇宙が存在するのか、それともこの質問は仏教におけるタブーなのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そういう空想上の輪廻は無い
私個人が学んで納得した輪廻転生の正しい解釈とは、死んでからの後のことではありません。
もともと輪廻思想とはインド古来の考えであって、王道の仏教とは別物、❝思想❞なのです。
お釈迦様が、輪廻転生があるぞぃと説いたのではなく、インド古来の死後思想で輪廻転生という思想がもともとあって、みなを支配していた、誰もがみんな死んだら、六道を輪廻すると思っていたのでしょうね。ですが、そんな生きている人間が作ったツマランぐるぐる思想からも解脱ができる、と説いたのが仏教です。クールに言えば、いつでも私たちは前のことから転生しているでしょう?
さっきの事はもうなく、悩んで布団に入っていたあなたはもういない。これが転生、転生の姿です。
輪廻の方ばかりが聖闘士星矢などアニメなど焦点が当てられて、肝心のそこから解脱できる教えが誰も焦点を当てていないのは残念な夫、ならぬ残念な仏教ではないでしょうか?
なぜなら、そういうたぐいは根拠がなく、所詮人間の作った思想に過ぎないからです。
仏教は思想ではなく、輪廻思想も含めた精神の浮き沈みからも抜け出せる解脱の宗教です。
理知的に六道を解釈すれば、それはあくまで精神状態のコト。
http://hasunoha.jp/questions/386
お盆は、先祖先亡を家庭にお招きして、あたかもそこに追わすが如くにお祭りして、他の精霊にも自らの餓鬼心を離れる為に布施、供養をする日本の国民行事です。
本当は先祖供養がメインではなく、自分の我欲を離れる事がメインです。だから法要、先祖供養をするのです。餓鬼という化け物が実際にいるのではなく、人間の我欲、欲得、自我、エゴ、恐怖、迷妄、苦惑などの心を現した象徴が餓鬼、餓鬼心です。
そこに法食、すなわち正しい道理、真理を自らの心の飢渇に施すことによって、みなで成仏する機会です。正しい情報でなければ、本当に救われない。寝られなかったのもそういうことでしょう?
私も昔、そういうものがあると思っておりましたが、仏教を深く学んでい行くと、真意は絵空事めいたものではなく、キチンとした道理であることが分かり、大安心できました。
正しい解釈無しに、根拠も探らずに輪廻転生をうのみにしてはそれこそ、迷いの元です。
おっしゃる通りです。何もしなれば輪廻します。
狐の婿入りさんのおっしゃるように、私たちは何もしなければ、死ぬと輪廻し次のいのちを頂きます。
今やっている己の行い(カルマ)によって、次のいのちが作られていきます。
これが仏教の基本的概念です。
仏教という教えは、この輪廻から解脱し仏になるという教えです。
浄土真宗は、いのち尽きた時に阿弥陀様の本願力で仏に生まれることを目的としています。
だから私共の宗派では、ご先祖様は輪廻することなくみんな仏様となっておられます。
ご先祖様に手を合わせているということは、仏となったご先祖様に手を合わせているということです。
成仏を願っているわけではなく、仏となられたことを讃嘆しています。
そして、「お盆」や「彼岸」に帰ってくるというような考え方は、浄土真宗にはありません。
仏様は自在な存在ですから、時期や時間に囚われず、たえず私をお見守りして下さり、仏縁に出遇うようはたらいていて下さります。
だから「お盆にだけ帰ってくる」ということはありません。
ずっとそばにいて下さります。
仏教を信仰しない人は死ぬと輪廻し次のいのちが始まります。
生きているうちに仏法を聴聞し、仏のいのちを頂くことをお勧めします。
輪廻は怖いです。
地獄や餓鬼や畜生といった三悪道に生まれてしまうかもしれません。
人間に生まれたことは大チャンスです。
仏になるチャンスがあるのですから。
※魂が分裂することはありません。
そもそも魂は存在しないというのが仏教の教えです。
「無我」「無自性」「無常」「空」「縁起」等でお説き下さることです。
仏として娑婆に還り衆生を導く。
狐の婿入り様 こんにちは。
お盆といえば家のお仏壇にお坊さんが来て読経する。またはお墓参りに行く。宗派での違いは若干ありますが、私の住む北陸地区ではそんなイメージが定着しています。
・仏に成って輪廻から抜け出したはずのご先祖がなぜ娑婆に戻るのか?
・とある知恵袋の回答では仏教が日本に入る前から先祖供養の習慣があったと書かれているけれど、なんでお盆といえば仏事のイメージがあるのか。
そのあたりの矛盾で悩んでいると受け止めればよろしいでしょうか。
なぜ、お盆に墓参りや仏事をするのかの意味は各宗によって解釈が異なる部分があります。各宗のHPで紹介しているところもあるので参考にしていただけるといいと思います。
狐の婿入り様は仮にお盆にご先祖が返ってくるとするならばどんなイメージをお持ちですか。
先祖が妖怪になって自分たちに意地悪をしに来るイメージでしょうか。
あるいは、仏に成ったご先祖様が見守ってくださっているイメージでしょうか。
ナスやキュウリなどの目に見える形で戻ってくるイメージでしょうか。
あるいは、普段自分のことで精一杯な頭の中に、記憶としてよみがえるイメージでしょうか。
浄土真宗の考えたかとしては、報われない先祖が霊として戻ってくることはないので、恐れなくてもよいです。報われない霊を鎮めるために仏事をするものではないという立場です。
仏事という場を借りて、日頃、自分の感情から生じる不安や自己のことを考える割合が高い生活のなかで、自分以外のかつて確かに生きていた人たちを思い遣る時間を持っていただければ嬉しいです。
供養というコトバも自分が供えることで先祖を養っているいう考え方もありますが、今までの先人の築き上げてきたものの上で自分たちは養われているという視点も持っていただけると有り難いです。