hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

「輪廻転生」と「お盆」

回答数回答 3
有り難し有り難し 58

昨晩、布団に入り輪廻転生について考え出したら、なんだかとても恐ろしくなって眠れませんでした。そんな夜明けにふと思ったのですが、仏教では「お盆にご先祖様が帰ってくる」と一般的に言われてますが、この考えと輪廻転生の仕組みは矛盾しませんか?
魂が分裂したり並行宇宙が存在するのか、それともこの質問は仏教におけるタブーなのでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そういう空想上の輪廻は無い

私個人が学んで納得した輪廻転生の正しい解釈とは、死んでからの後のことではありません。
もともと輪廻思想とはインド古来の考えであって、王道の仏教とは別物、❝思想❞なのです。
お釈迦様が、輪廻転生があるぞぃと説いたのではなく、インド古来の死後思想で輪廻転生という思想がもともとあって、みなを支配していた、誰もがみんな死んだら、六道を輪廻すると思っていたのでしょうね。ですが、そんな生きている人間が作ったツマランぐるぐる思想からも解脱ができる、と説いたのが仏教です。クールに言えば、いつでも私たちは前のことから転生しているでしょう?
さっきの事はもうなく、悩んで布団に入っていたあなたはもういない。これが転生、転生の姿です。
輪廻の方ばかりが聖闘士星矢などアニメなど焦点が当てられて、肝心のそこから解脱できる教えが誰も焦点を当てていないのは残念な夫、ならぬ残念な仏教ではないでしょうか?
なぜなら、そういうたぐいは根拠がなく、所詮人間の作った思想に過ぎないからです。
仏教は思想ではなく、輪廻思想も含めた精神の浮き沈みからも抜け出せる解脱の宗教です。
理知的に六道を解釈すれば、それはあくまで精神状態のコト。
http://hasunoha.jp/questions/386
お盆は、先祖先亡を家庭にお招きして、あたかもそこに追わすが如くにお祭りして、他の精霊にも自らの餓鬼心を離れる為に布施、供養をする日本の国民行事です。
本当は先祖供養がメインではなく、自分の我欲を離れる事がメインです。だから法要、先祖供養をするのです。餓鬼という化け物が実際にいるのではなく、人間の我欲、欲得、自我、エゴ、恐怖、迷妄、苦惑などの心を現した象徴が餓鬼、餓鬼心です。
そこに法食、すなわち正しい道理、真理を自らの心の飢渇に施すことによって、みなで成仏する機会です。正しい情報でなければ、本当に救われない。寝られなかったのもそういうことでしょう?
私も昔、そういうものがあると思っておりましたが、仏教を深く学んでい行くと、真意は絵空事めいたものではなく、キチンとした道理であることが分かり、大安心できました。
正しい解釈無しに、根拠も探らずに輪廻転生をうのみにしてはそれこそ、迷いの元です。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

おっしゃる通りです。何もしなれば輪廻します。

狐の婿入りさんのおっしゃるように、私たちは何もしなければ、死ぬと輪廻し次のいのちを頂きます。
今やっている己の行い(カルマ)によって、次のいのちが作られていきます。
これが仏教の基本的概念です。

仏教という教えは、この輪廻から解脱し仏になるという教えです。
浄土真宗は、いのち尽きた時に阿弥陀様の本願力で仏に生まれることを目的としています。
だから私共の宗派では、ご先祖様は輪廻することなくみんな仏様となっておられます。
ご先祖様に手を合わせているということは、仏となったご先祖様に手を合わせているということです。
成仏を願っているわけではなく、仏となられたことを讃嘆しています。

そして、「お盆」や「彼岸」に帰ってくるというような考え方は、浄土真宗にはありません。
仏様は自在な存在ですから、時期や時間に囚われず、たえず私をお見守りして下さり、仏縁に出遇うようはたらいていて下さります。
だから「お盆にだけ帰ってくる」ということはありません。
ずっとそばにいて下さります。

仏教を信仰しない人は死ぬと輪廻し次のいのちが始まります。
生きているうちに仏法を聴聞し、仏のいのちを頂くことをお勧めします。

輪廻は怖いです。
地獄や餓鬼や畜生といった三悪道に生まれてしまうかもしれません。
人間に生まれたことは大チャンスです。
仏になるチャンスがあるのですから。

※魂が分裂することはありません。
そもそも魂は存在しないというのが仏教の教えです。
「無我」「無自性」「無常」「空」「縁起」等でお説き下さることです。

{{count}}
有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

仏として娑婆に還り衆生を導く。

狐の婿入り様 こんにちは。

お盆といえば家のお仏壇にお坊さんが来て読経する。またはお墓参りに行く。宗派での違いは若干ありますが、私の住む北陸地区ではそんなイメージが定着しています。

・仏に成って輪廻から抜け出したはずのご先祖がなぜ娑婆に戻るのか?
・とある知恵袋の回答では仏教が日本に入る前から先祖供養の習慣があったと書かれているけれど、なんでお盆といえば仏事のイメージがあるのか。

そのあたりの矛盾で悩んでいると受け止めればよろしいでしょうか。

なぜ、お盆に墓参りや仏事をするのかの意味は各宗によって解釈が異なる部分があります。各宗のHPで紹介しているところもあるので参考にしていただけるといいと思います。

狐の婿入り様は仮にお盆にご先祖が返ってくるとするならばどんなイメージをお持ちですか。

先祖が妖怪になって自分たちに意地悪をしに来るイメージでしょうか。
あるいは、仏に成ったご先祖様が見守ってくださっているイメージでしょうか。

ナスやキュウリなどの目に見える形で戻ってくるイメージでしょうか。
あるいは、普段自分のことで精一杯な頭の中に、記憶としてよみがえるイメージでしょうか。

浄土真宗の考えたかとしては、報われない先祖が霊として戻ってくることはないので、恐れなくてもよいです。報われない霊を鎮めるために仏事をするものではないという立場です。

仏事という場を借りて、日頃、自分の感情から生じる不安や自己のことを考える割合が高い生活のなかで、自分以外のかつて確かに生きていた人たちを思い遣る時間を持っていただければ嬉しいです。

供養というコトバも自分が供えることで先祖を養っているいう考え方もありますが、今までの先人の築き上げてきたものの上で自分たちは養われているという視点も持っていただけると有り難いです。

{{count}}
有り難し
おきもち

hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

煩悩スッキリコラムまとめ