幸せとは
幸せとはなんでしょうか?
食べる物もなく、生活もギリギリになると幸せとは何かを考えてしまいます
たとえ愛する人が側にいたとして、その人を幸せにすることができるのでしょうか?
お金があり、仕事もあり、家族がある人でも死を選ぶ人もいます
このまま同じ生活がいつまで続くのかと考えると恐怖しか感じません
幸せとは、人生においての希望とはなんでしょうか?
信頼、愛、信仰心があったとしてお金が無いと生活はできません
逆にお金があっても人との繋がりが無い人も多くいます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
辛さの中にあっても「幸せ」を感じる心です
日々の生活はとても大変です。
何か「希望をもって」とか言われても、
生活に困る現実があれば簡単にそんな気持ちもになれないと思います。
特にお金の心配は尽きる事無く、とくに健康を概しているときは切実です。
どっちを向いても希望を見いだす事が出来ないときも多いかもしれません。
そして心が焦ると大切な愛する人とも言葉の行き違いから喧嘩してしまったり…
なんてこともあるかもしれません。
「この先どうなるのだろう」…当たり前の不安であると思います。
この世において、全ての人は未来なんて全くの不確実なんです。
お金持ちの会社の社長さんでも、明日は会社が倒産して路頭に迷うかもしれません。
家を新築して新車を買って幸せに暮らしていても、一瞬後には大地震で全てが無くなってしまうかもしれません。
そもそも、未来は「ある」という暗黙の了解に過ぎないのです。
不安に思えばキリがありません。
不安は不安を呼び、不安な状況をどんどんと作り出すものかもしれません。
ですので、不安と感じたら不安である自分をまず受け入れて、
今あるもの、小さな事でも今出来る事…を喜びましょう。
「喜び」や「感謝」は不思議な事に福をもたらします。
人は何のために生まれて来たのでしょうか?
私にはそれぞれの人が「自分」が何であるのかを実感するために生まれて来たように思えます。
過ぎ去った「過去」、全く未確定でまだ来ていない「未来」、に惑わされず
「今」の自分を全ての偏見を切り離して感じる事が出来れば
貴方は「自分」という小さな器ではなく、
もっと尊いものであると気づくかもしれません。
そうすると、どんな状況であろうと日々の生活の中に…
そして貴方のその手の中に…
一瞬一瞬の中に…
「幸せ」が目一杯詰まっている事に気がつくと思います。
貴方の心は貴方が思っている以上に
遥かに大きく…深く…。
追記:もしもあなたが少しでも自分の中に仏を感じれた時、今までのどんな時もあなたは常に仏と共にあり、さらにいえば仏であった事に気がつくと思います。気づくと気づかないとの差は実は小さいようで大きいのです。
(私は真言密教で修行をした僧ですので、申し上げる事は他の宗派とは違うと思います)
幸せ=仏になること
私たちはよく『○○が叶えば...』 とか『○○になれたら...』と幸せの定義をします。
しかし、実際その希望が叶うと幸せにはなれていない自分に気づきます。
また新たな欲求が生まれその欲求に縛られていきます。
『幸せ』な状態とは夢叶うことが確定している状態なのです。
例えば、大学受験を終えて志望大学の合格通知が届いてたとき。
恋い焦がれた女性との結婚が決まったとき。
など、まだ私の夢が叶った訳ではないけども、叶うことが確定しているとき、それが一番幸せなのです。
実際、大学に行けば悩み、結婚をすれば悩むものです。
ここからが仏教の話です。
仏という存在は何一つ苦しみがない存在です。
そんな仏になりたいと乞い願うのが仏教であります。
であるから、仏になれることが確定している状態を幸せといいます。
また、仏になれたならば一切の苦悩は無くなり、自在な存在として遊ぶが如くに利他行を修する身となります。
この仏になることこそが最上の幸せなのであります。
お金は仏になる事と全く関係がないので、あってもなくてもいいです。
生活を金銭的に豊かにすることは大切ですが、それはあくまで気分転換程度のものです。
そこだけを追及しても本当の意味での幸せにはなりません。
いつか空しく命終えるだけです。
追記:つまり習慣さんは、空腹を満たすこと(欲求を満たす)=幸せということですね。
それは至極当然のことであり、全く否定するつもりはありません。
しかし、「空腹→食べる→満たされる→・・・・」この先には何があるでしょう?
行き着く所何も変わらないのです。
むしろ、もっとおいしいものが食べたいとか、食事なんてどうでもいいからもっと別の・・・と欲求が大きくなっていきます。
確かに、「輪廻する」と言われても私の知ったことではありません。
だからこそ、お釈迦様はしっかりとお説き下さいました。
そのお話を聞くためには体調を整える必要があります。
空腹は満たさなくてはいけないし、よく寝ていないと話など聞けません。
だからお金は気分転換に使うぐらいのものですとお伝えしました。
人によっては幸せの定義が違いますが、仏教では統一されています。
「幸せ=仏になること」です。
私はここで個人的な想いや道徳を述べるつもりはありません。
ただただ仏教のお話をさせて頂くだけです。
究極的な幸せを目指して
習慣様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
世間における「幸せ」というものは、大抵の場合、何らかの欲望を満たすことによる「幸せ」と言えるのではないかと存じております。また、それらの幸せは、相対的な比較判断・価値判断にて成り立つものであり、人それぞれにおける個人的な価値観、認識の問題もあり、「これが幸せです」とはなかなか決めれないものでございます。
もちろん、仏教もある意味では「幸せ」を求めるための教えでございますが、その「幸せ」は、私たちの欲望を満たすような世俗的な意味合いでの「幸せ」ではなく、「涅槃・悟りの境地」という「究極的な幸せ」を目指すものであり、世俗的な幸せとは全く次元の異なるものとなります。
「信頼、愛、信仰心があったとしてお金が無いと生活はできません」・・もちろんです。先立つものは当然に大切ですが、要はその使い方を誤らないように日々の行いをより善くに調えていかないといけないということになります。
「幸せ」につきましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いておりますので、是非ご参照下さいませ。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/幸せ
『・・「幸せ」もそうですが、自分一人では生きていけないように、幸せになるためにも自分一人では到底幸せになることもできません。私たちは無数の関係性の中で有り難くにも存在できているのであり、様々な関係性をより善くに構築していくことが大切となります。そのためには、例えば謙虚さや感謝の心を養うのも必要なことになるのではないかと存じております。・・』
「・・この人生での良い報い、良い結果を求めたいのであれば、やはり、そのための因・縁(条件)が必要となります。何もその因・縁を積まずにして、どこかから良い報い、幸せが勝手にやってくるわけはありません。種も発芽するには、水や光や養分やと発芽のための因・縁が必要であり、種だけで水や光や養分などの因・縁無しで発芽という結果が生じるものではありません。幸せという芽を出すためには、それなりの因・縁が必要であり、仏教では、それこそが「善い行い」となる次第でございます。・・」
川口英俊 合掌
煩悩だと思えません
お礼に書かれてある、この部分です。「、、、これから先も食べたい、寒い思いをしたくない
これを求める事も煩悩になるのでしょうか?」
これは、空腹という苦痛、寒いという苦痛、です。怪我をしたら治療をするように、苦痛を取り除く努力をすることは、煩悩ではないと思います。なので私も、「その場で食べ物を渡される、食べ物を買えるお金を貰える方が幸せだと感じます。」
質問者からのお礼
ご返答ありがとうございます。
幸せの定義は人それぞれですね
ですが、例えば今食べる物が一切無く何も買えるお金も無いとして
飢餓に苦しんでいるときに人は信じる物があれば救われるのでしょうか?
少なくとも私はその場で食べ物を渡される、食べ物を買えるお金を貰える方が幸せだと感じます。
生きたい、これから先も食べたい、寒い思いをしたくない
これを求める事も煩悩になるのでしょうか?
例え私が死に、輪廻が回り、仏になろうともそれは私であり私ではありません。
苦痛がないとは?
仏に成りたいこれも欲求ですよね?
それでは全てが叶った状態それが仏ならば、仏になった状態、それは無と一緒ですよね?