回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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ちはやふる ほとけふる ❝煩悩以前の状態キープ❞
煩悩とは読んで字のごとく、煩わしい、悩ましいと記すもの。
心の中に現れる欲望や不安を何でもかんでも煩悩とは言わなくてもよいのです。
そして、煩悩とはあなたが実は煩悩にしているので、それを煩悩にさせなくすることで煩悩は鎮められます。
心を静めて自分のこころをみつめてみましょう。
こんなこと考えたくないのにどういうわけか勝手にいろんな思いが沸いているでしょう。だれがその思いを作り出そうとしたのでしょう?自分の意志ではないはずです。
夢だってどうして夢の中にあの人が出てくるのだろう?ということがあるはずです。脳にとって気になっている事、消化不良になっていることを解決しようとして表れているともいえましょう。大切ことは、その自然発生的に出てくる一念の正体をあなたが自分の心に向き合ってその本質を見極めることです。
その正体とは何か。
それは一念は一念であって煩悩ではないのです。
発生時点において、ポンと出た瞬間からそれが煩悩だなんてことは絶対にありません。にくい、きらいだ、殺してやりたいという思いがちらついたとします。それでさえ煩悩ではありません。もちろん、その思いを本当に現実世界で実行したらそれは煩悩となり、害をもたらせるものでしょう。ですが、よく今から自分の思いを観察してみてください。どんな思い、コメント、イメージが浮かんだとしても、発生時点では産地直送、人畜無害、無色透明。誰のものでもないのです。アタシがアタシの頭の中で生まれたのにアタシの持ち前の所有権を有する思いで「すら」ない。
それを無色透明といいます。お手付きなしのままの一念は、そっと触らずにいると上流から流れてくるゴミのように流れに任せて消えていってしまうはずです。
ネットのニュースですら毎日全部のニュースや情報を見ていたら気がめいってしまいます。それこそ煩悩。
ただの一念がいつから煩悩になるのか。
それはあなたのお手付きなのです。
カルタではありませんが、心の中の思い・一念の読み上げがはじまったらそこでカルタ競技に参加しない。
すべてがこちらが関わることなくそれが流れていくようにソーシャルディスタンスをとって、お手付きをしない。
それが煩悩の無毒化方法の決め手「ほとけふる」「仏フルハウス」です。
誰のものでもない一念
うまれをそっと見つめる中で
はやる私をつつしみて
そのまま触らずとりあわず これ仏フルネス。
あいうえお・一二三四五
口で「あいうえお」と言いながら
同時に
心で「一二三四五」と念じましょう。
妄想雑念が過ぎ去り、あいうえお・一二三四五で忙しくなります。
何回かやった後に、
「全ては無常で、心は浮かんで消えていく。
瞬間ごとに新しい自分に入れ替わっている。」
と意識しましょう。
多少は鎮まると思います。
仏様にお向き合いなさって下さい
拝読させて頂きました。
そうですね、なかなか貪瞋痴は消えること無いです、慢心もおごり高ぶりも卑下もなかなか消えないですよね。
そういう時には私は心から仏様にお向き合いしています。自分の心に湧き上がってくる思い、愚かな考えや悪しき言葉や行いを心から悔いて仏様にありのままお伝えさせて頂きます。全てを素直に告白し誠心誠意懺悔します。
仏様のお顔を拝んでいると少しずつ落ち着いてきます。仏様はありのまま受けとめて下さいますからね。
あなたもどうか心の中で仏様にお向き合いなさって心からありのまま己の思いをあふれてくる貪瞋痴や悪意悪言悪業を告白なさって下さいね。
あなたをいつも仏様は受け入れて下さいます。そしてあなたの煩悩は少しずつ鎮まってくることでしょうし、あなたを善き方へお導きなさって下さいます。
ゴメンねとありがとうをつぶやく
僕は鎮めません。
葛藤や矛盾など言語化や整理のできないモヤモヤなど、今まで抑圧されていた何かが
まんやとんじんちという形で現れたのですから。
出した後ではゴメンね。
けど受け止めてくれてありがとう。
凹みながら、自己嫌悪に陥りながらつぶやきます。
昔は慢にならないよういい人を演じようと努力したり、とんじんちが出そうになったら深呼吸と瞑想っぽいことして、リズムを遅くしたり、煩悩のエナジーを食べることに向けてすり替えていましたが、手に入れたものは悟りや正覚とはほど遠い、脂肪肝高血圧糖尿のボディでした。
慢やとんじんちを『出してはいけない』でなく、食後の便通のように『迷惑にならない健全な出し方』を考える視点を持つことをオススメします。
質問者からのお礼
ありがとうございました😊❗️