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「虚無感・空虚・毎日が虚しい」問答(Q&A)一覧

虚無感が酷いです。

自分でも、自分の状態が危うい気がしてしまい、投稿しています。 私には友達と呼べる友達がいません。 連絡するのは母と、同居人ぐらいです。 人と関わるのは苦手ですが、孤独になるのは恐ろしいと思っています。 誰も彼も、自分の周りから人がいなくなって、孤独になってしまったら、孤独死してしまうんじゃないかと思っています。 生きがいと呼べるものもなく、夢もなく、目的もなく日々を消費していることに、嫌気が差してきました。 からっぽの私は、どうして生きているのでしょうか。 誰かのために、何かのために、と思えるものもなく、楽しいと思えるものも、守りたいと思うものもありません。 ただ資源を消費して生きて、なんの役にも立たないのに、何も生み出せないのに。 命を断つことは怖いし、人様に迷惑をかけると思うので、それは考えていませんが、ある日ふと糸が切れてしまったとき、どうなるかが恐ろしいのです。 私が生きていることによって発生するメリットが、デメリットより少なく、どうしても自分が不要に思えてなりません。 ここに縋り付いている時点で、どうにかしたいと思っているのだと思います。 でも、どうすればいいか分からないのです。 私は、このまま生きていて良いのでしょうか。 どう考えれば、前向きに生きる活力が得られるのでしょうか。 漠然とした相談になり申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

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ワンオペ生活。やる気が起きません。

何事も気合いで乗り越えていたのに、突然やる気が起きなくなりました。 主人と1歳の息子の3人家族。主人は単身赴任中のため、普段は息子と2人、私もフルタイム勤務をしながら生活しています。 朝から晩までルーティンをこなす生活ですが、ルーティンが好きな私は、元々家事も苦にならないタイプです。 息子も順調に育ってくれており、息子が産まれて私は、人生の本番がやってきたと、毎日充実感を覚えています。 しかし、先日職場で上司同士が起こした大きな喧嘩に遭遇し、その日から調子がおかしいのです。職場全体を巻き込むような喧嘩に発展し、私は聞いていただけですが、その場の空気や色んな人の思惑に影響を受けざるを得ませんでした。 スタッフ6人で普段は会話もほとんどなく静かな職場。急ぎの仕事が無い日は、PCに向かい、何かしら自分で仕事を見つける日々です。 そんな中起きた喧嘩。その内容を聞くうちに「こんな所で私は何をやっているんだろう」と虚しさに似た感情が込み上げてきました。一生懸命働いていますが、上司達の喧嘩の内容にがっかりしてしまい、虚無感が拭いきれませんでした。 その後も重い腰を上げ、毎日通勤していますが、先日、持病である汎発性脱毛症という難病の治療のため大学病院へ定期通院した日に、新たに膠原病にかかっている可能性があると言われました。 まだ確定したわけではないのです。ですが、緊迫した病状の説明にショックを受けました。 その瞬間、何かがぷつっと切れたと言いますか、悲しさとやりきれなさと疲れが込み上げて、やる気が起きません。 掃除も洗濯もいつも通りしていますが、いつになく些細なことで苛立ってしまったり、仕事にもやる気が起きなくて… 互いに全く関係の無いアクシデントは続いていましたが、積み重なって疲れてしまったのでしょうか。やる気を取り戻すにはどうしたらいいでしょうか。

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日々ただ生きるのがつらい

ずっと1人でいるような感覚が拭えません。 寂しい、というよりは虚しいというか、居る意味があるのだろうか、と考えてしまいます。 なんでここにいて、何のために生きているんだろう。 いなくても誰も悲しまないし、気にしないんじゃ…、と思います。 友達間でも職場でも、嫌われてる、好かれていない、適当に扱っても大丈夫だ、と思われていると強く感じ、日々を生きるのが辛いです。 痛いのが怖くて、死ぬことを選べないから生きているんだ、と思います。 親の態度も昔からずっと弟たちには優しくて、私のできないことの話を笑い話とかで仕事場のお客さんとかにするような家で。 父が次男で母が一人っ子だったからか、誰も私の気持ちを分かってはくれない、と思い生きてきました。 家を出る前は 怒ったり、機嫌が悪いと生まれてこなければ、お前なんか誰にも好かれない、とか、世の中やっていけるわけない、とか散々言ったり、名前を付けた人達なのに名前呼ばずにお前、とか呼んでたのに 家を出てからは ご飯食べにきなよ、とか、元気?、とか頻回に連絡してくるんですが、自分的にはそれがなんというか…気持ち悪くて… 今までのことなかったことにしたいのか、修復しようとしてるのかわかりませんが、凄く凄く気持ち悪くて… 誰も好きになれない気がします。 誰かを自分から好きにならないと誰も好きになってくれないよ、と人から言われたりもしましたが、わかる気もするんですが… なんだか…疲れてしまって 最近ではストレスなのか、常に身体が重くて、頭が痛いと言った症状に悩まされています。 消えたい、と強く思います。 ただ日々を生きていくのも辛くて、しんどいです。

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虚業で食う飯は美味くない、でも飯は必要

課金ガチャで儲ける仕事を10年以上しています。 自分のことだけ考えて生きているうちは、楽しい儲かる恵まれた仕事だと思っていました。濡れ手で粟、ソシャゲバブルで成金、それこそ目指すべき人生の成功だと。 しかし子供が生まれて視野が変わった結果、アコギな虚業であるという事実が自分のなかで大きくなり、仕事が苦痛に変わりました。 子供が生まれると、直接的にも間接的にも、自分がいろいろな仕事・人々に支えられていると実感します。安価に素晴らしいサービスが提供されています。本当にありがたいことです。 それを享受する一方で、自分は何十万もガチャに使ってもらうことを企画して、「目標売上うん億目指しましょう」とか言ってるわけです。なにが高額課金層の離脱ケアだ、こんもんに何百万も使うくらいなら辞めたほうがその人のためだわ。と、青臭いことを思わずにはいられません。 身近な例としては、世のため子供のために頑張る保育士さんや教員の方と比較して、あってもなくてもいい自分の商売のほうがずっとラクに儲けているんです。おかしな世の中ですよ。 実のある仕事をしたいと思う一方で、住宅ローンや子供の養育費を考えると、動き出せない自分がいます。 転職しようにも、これまでの経験を活かそうと思うとアコギな商売ばかり目につきます。(出会い系ナンパアプリの仕事とか) 生き方をガラッと変えることは可能なのか。子供とローンをかかえてそんなリスクをとっていいのか。 このもやもやを晴らすため、なにかお言葉をお願いできないでしょうか。

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空虚で思いやりのない自分を変えたいです。

25歳にもなり、空虚で思いやりのない自分に戸惑っています。どうかアドバイスをお願いいたします。 物心ついた頃から父が鬱状態にあり、本来明るく楽しい性格という母は情緒不安定になっていました。 明るく思いやりを持って接してくれてたかと思うと、些細なことで機嫌を崩し、物置に閉じ込めたり扉に追いつめて殴ったりしてきました。 なぜそんなことをするのか聞いたところ、「口答えするな」「私も親にそうされた」のような理由にならない答えが返ってきました。 それでも同時に大きな愛情を感じていたので、私は母を愛していました。 家族の均衡を保つ為に、おどけたり母の望む良い成績を取ったりと全力を尽くしていました。 辛いことを忘れるようにしていたら楽しいことも忘れるようになり、辛いという感覚を消すようにしていたら楽しいという感動や物事への期待がなくなりました。 小学高学年の頃父が自殺し、残った家族で母の実家に戻った後、母は3年ほどひとしきり暴れ(この時期が1番キツかったです)、ある日突然憑き物が落ちたように本来の明るく快活な母に戻りました。 物心ついた頃から私の人生の中心にあった問題がぽっかりとなくなったことで、酷い虚無感に襲われるようになりました。 辛い記憶がぶり返し、落ち着いてきた母に幼少の頃された事が辛かったと言ったところ、母は私を「狂っている」と罵り、幼少の私にしたことを「お前の妄想だ」と言いました。 私は無かったことにはさせまいと家の中で母を罵るようになり、それから就職して1人暮らしするまで、無駄だと知りながらずっと母に「辛かった」という事を認めさせる事ばかり考えていました。 その後1人暮らしを始め、いろんな人と交流したいと思うようになりましたが、上手くいきません。 いつもどこか寒々しく、他人事のような気持ちです。物事に熱中することもできず、人を常に疑いの目で見てしまいます。 人への思いやりももはや無く、何をするにも適当です。 今でも昔身につけた、物事を忘れる癖が抜けてくれません。 今ではあの長い、虚無感と向き合ってばかりいた年月を他のことに使っていれば良かったという後悔の念で一杯です。 25歳にもなって何も無い自分が恥ずかしいです。 今からでも自分を持ち、人を信じつつ思いやりの心を持つ方法はありますでしょうか? どうかよろしくお願いいたします。

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生きてる事が虚無に感じます

私は今何を目的に生きればいいのかわかりません 元々私は人とのコミュニケーションが苦手で 高校ではそのせいで1年生でいじめにあってしまい不登校になって結局中退してしまいました 先生も親もなにもしてくれませんでした この件で元々苦手だった人付き合いが更に苦手になった気がします その後は通信制の高校に進学しましたが学校自体を信用出来なくて不登校になってしまいました コンビニバイトもスーパーのバイトも数年間しましたがなにをしても失敗ばかりでバイトの先輩やお客さんにも迷惑をかけてしまってました そのせいもあって仕事の面接に応募するのも「また失敗ばかりして迷惑かけてしまう…」と思ってしまい半年くらい働けていません 最近では他人の目線がとても怖くて外にすら月1で出る程度まで少なくなってます 親に相談しても「それは甘えだ」としか言われなくて辛いです 例えるならビルの屋上から飛び降りろと言われてるようなもので本当に怖いのです しかし親に頼ってる現状は変わらなくて これからこの先の未来もこんな辛い思いしてずっと何十年も生きなきゃならないと思うと死んでしまう方が楽なのでは?と思い始めてきました 趣味という趣味も無く、夢も無くて学歴も経験も何も無い空っぽな自分が辛いです 今は毎日がただただ無駄に時が流れていくだけで虚無そのものなのです 親に相談しようと思っても同じ答えしか返ってこなさそうで怖いですし誰を頼ればいいのだろうと思って調べてたらここを見つけました 長々と語ってしまいましたが こんな私でも生きてて良いのでしょうか?どういう考えを持てば変わることができるでしょうか? またもう20歳を超えてしまった私が今から頑張ったら普通の人レベルの人生になれますでしょうか? 長々と申し訳ありません、難しい質問になってしまってるかもしれませんがよろしくお願いします

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毎日悲しく虚しいです

孤独な人生でした。今年で25歳です。 抜け出したいと思って、今日まで必死で生きていたのですが、最後に信じた恋人と別れた事で、この運命は変えられないとわかり、絶望してしまいました。 5歳の頃に両親が離婚し、父親に引き取られましたが、父親には離婚の原因となった再婚予定の女性がいたこともあり、育児放棄され、一人暮らしをしていました。当時は家に一人でいることが自分の当たり前だったので、寂しいと思う気持ちすらありませんでした。私は父親にずっと、世界で一番愛していると言われていましたので、それを信じていました。 私は、早々に家を出て、働きました。 仕事は充実していて、仲間にも恵まれました。 大人になり、父親に再会したときに、「寂しい思いさせてすまなかった」と謝られたとき、私は、ただ寂しい思いをさせられていたのだと、ようやく知りました。 家族と、家族として暮らしたことがありません。 私は小さい頃からずっと、1人で戸締りをし、1人で寝起きし、1人でご飯を食べて過ごしています。 いつかは、素敵な人と結ばれて、子供を産んで育てて、温かい家庭を築けるのだと、そう願っても良いんだと信じて来ました。 けど、失恋くらいで、大袈裟かもしれませんが、私はやっぱり1人で生きていくしかないのかなと思うと、この寂しさや虚しさが一生続くかもしれないのだと思うと、涙が止まりません。 恋人には、一人で生きていきたいと言われて振られてしまいました。 これまでお付き合いした方に、別れ際にまで一緒にいて欲しいなどと、食い下がるようなことはありませんでした。 ですが、別れを決めた彼の気持ちが分かった上で、あなたにだけは一緒にいて欲しい、私を選んで欲しい、どうか1人にしないでほしいと言ってしまいました。 結局、お別れを覆すことは出来ず、泣き腫らし、生きる気力もありません。 私は、孤独が恐ろしいです。 年齢を重ねる毎に強くなっている気がします。 いつかはこの手をとって、ずっとそばにいてくれる人に会える、その時まで生きようと決めていました。 けどもう、なんだか疲れてしまいました。 どの道孤独しか用意されていない人生なら、と、歩くことが出来なくなりました。 塞ぎ込む毎日です。生活費も遅かれ早かれ尽きてしまうのが分かっています。 寂しくてたまりません。 消えてしまいたいです。

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ただ無為に生きている

わたしは26歳女で会社員をしています。 恋人もおり、収入もそれなりにあり、身体に大きな問題もなく、生きています。 ですが、自分自身生きることにあまり意味を見いだせておらず、積極的に「生きたい」と思えません。 かといって積極的に死にたいわけではなく、「痛みを伴わずに死ねるなら死にたい」くらいの気持ちしかありません。 多くの人間が当たり前に願う「長生きしたい」「子孫を残したい」などに共感できず、ただ死ぬのは痛いから惰性で生きています。 かつては家族に対して不誠実な行いをした父親に対する怒りや、恵まれた環境に生きる人への反骨精神のようなもので精力持って生きていたのですが、いまはもう、父親とはほぼ縁を切りそこそこの学歴と職を得て、そういった負の原動力も消えました。 今生きているのは惰性です。 恋人のことも、抱きしめたときの温かさに心地よさや愛しさこそ感じますが、それが「だから長生きして一緒にいたい」とつながりません。 あたたかくて、いまこの瞬間の心地よさに包まれて目を閉じて眠り落ちて朽ちたい、そう思ってしまいます。 わたしはなぜ、こんなにも空っぽのまま生きているのでしょうか。どうしたら、活力が生まれ、生きることに向き合い丁寧になれるのでしょうか。

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人生の虚無感が拭い去れない

時々、人生の全てが虚しく感じて、猛烈な自殺衝動が訪れます。30分くらい経てば衝動は消えていって、憂鬱な気持ちだけが残ります。 そうなると、全てが嫌になってしまいます。昔からずっと馬鹿にされてきたこと。友だちがいないこと。ずっとスクールカースト最下層だったこと。不登校になったこと。精神の病気になったこと。通信制高校に転校したこと。体力不足であること。自分の性能が低すぎること。目を引くような美人でないこと。異性からも同性からも蔑ろにされること。自分に直さないといけないところがたくさんあること。今、大学でやらないといけないこと。将来、厳しい社会で働かないといけないこと…。 愚かだと思われるかもしれませんが、私は社会に出て働くくらいなら、死んでしまいたいと思ってしまいます。もちろん社会に出たら楽しいこともあるのではないかとは思いますが、私は人間関係を上手く構築できず、魅力がなく、馬鹿にされて生きてきたので、このまま毎日孤独で嫌な気持ちを抱えながら働くんだと思うと、消えてしまいたくなります。みんな、社会は学校より厳しいと言います。今より厳しいのが社会なら、どう生きていけば良いのか分かりません。 生きる意味はありません。朝起きると自分が生きていることを責めながら生きています。じゃあ、自殺しようかって思っても、中々実行できません。死なない理由を探してしまいます。「生きてたら何かいい事あるかも」とか、「ゲームのサービスが終了するまでは死にたくないな」とか。自殺は二度失敗してます。親を泣かせました。最初から生まれてなかったことにならないかなぁって思います。 マイナスの感情ばかり吐き出してしまって申し訳ありません。でも、私は弱く、近くの人間にこの苦しさを相談できません。涙が溢れて、泣いているうちにアレルギー反応のように体が痒くなって、ブツブツができて、息がしづらくなります。この世から拒絶されてるみたいで、苦しいです。 自分を救いたいです。生き方を教えていただけませんか?

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立ち上がる気力も動機も、もはやない。

朝の来ない夜はない。きっとそうなのだろう。そう信じてきた。 思春期の到来と同時に、心の裡にある虚無感と自殺願望に気付いた。 人は無意味に生まれ無価値に死ぬ。だが今死ぬのも怖い。生きるに足る何かを自身で見出さねばと決意してから20年が経った。 何度も膝が屈した。 不登校になり高校は辞めた。だが、何かを見出すためには外と接点を維持しなければと高認を受け大学へ行った。 就活に折れ何年も家にこもった。それでも社会に出て広がる視野もあるだろうと公務員になった。 虚無感も自殺願望も消えてくれなかった。 情熱は無く、熱意は無く、意欲は無かった。 心理学や哲学をかじった。アドラーとニーチェは劇物だった。 ある日唐突に恋人が出来た。歓喜した。無辺の海原を彷徨うが如き人生に、共にゆく同志が現れた! 彼女もまた人生に悩んでいた。陰鬱な話題も多かったが、共に解決していけると信じた。 別れを切り出されたのも唐突だった。 何を間違えたのだろうか。 仕方ない。それが彼女に必要な事ならば身を引こう。どうか幸福を掴め。私は応援したい。そう伝えた。 「応援とかいいから。とにかく別れて」 それが返答だった。 愛おしいのに憎い。「愛憎」の意味を知った。 人はこうも真っ直ぐに他人を呪えるものか。人はこうも醜くなれるものか。 親らしいことを何一つせず消えた父にも、いじめパワハラを繰り返されたかつての同級生や職場の上司にも、こんな憎しみは抱かなかった。 結局、罵詈雑言の応酬で15ヶ月の泡沫の夢は醒めた。 出会いがあれば別れがあるもの。でもきっと次の出会いが。恋愛は人を成長させる。 そうなのかもしれない。 痛みを知るからこそ人は優しくなれる。 仰るとおり。 癒やされるには傷が必要で、幸福を知るには不幸が必要で、善行を成すには悪行が必要だ。 出会いにはもれなく別れがついてくるし愛情と憎悪は表裏一体。 満たされるには、飢えていなければならない。 生きるために死に、死ぬために生きる。 もうたくさんだ。 得れば失う。そんなものは賽の河原だ。穴堀の拷問だ。 夜明けは無い。掴んだと思った幸福は手から零れていった。 海原だと思っていた人生は無間の闇だった。 20年足掻いてはみたが、いい加減幕を引きたいと思う。 朝の来ない夜はない。きっとそうなのだろう。それがただの夜であるならば。

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幸せなのに虚しいのは傲慢でしょうか

初めまして、道草と申します。今回初めて質問させていただきました、もし宜しければお手空きの際にご覧頂けますと幸いに存じます。 私は、今学校生活でも様々な機会に参加させていただきありがたい状況に置かれていると思います。 機会をいただき、チャレンジし、感謝される機会もありました。人の相談に乗り、感謝された時はとても満ち足りています。 成績が良くなったり、何か大会やコンクールで優秀な賞を取れた時はもちろん嬉しいです。 就活も、ご縁あって現在2社ほどに最終面接を受けさせていただき結果を待っています。第一志望の会社も決まりました。 もちろんうまくいかないことはあるにしろ、自分の努力が認められるのはとても嬉しいことです。家族とも、お互いに良好だと感じています。 ですが、たまに、賞をもらったり自分が努力する、今までのことが虚しくなる時があります。 ふ、とその瞬間になった時、「自分は幸せなはずなのに、こんなことを思うなんて傲慢なんじゃないだろうか」と思ってしまいます。自分がこんなふうに思ってしまうだなんて。 それなら、もっと努力している人がこの成果を得る方が公平ではないかと。自分よりももっと努力して夢に進んでいる人はたくさんいるはずだ、だからその人がもっと報われた方がいいのではないかと。 勿論今書いているこの文章そのものが、傲慢で、上から目線だと自負しております。 もし宜しければ、このような虚しい気持ちに襲われた時、どのように現在の状況を受け入れ満足していくか、その方法がございましたらご教授ください。また、傲慢さを抑え謙虚に生きる方法もありましたら、お教えくださると幸いです。 長文になってしまい申し訳ございません。 私の立場から申せたことではございませんが、気温が急激に変わる時期も続いております。何卒お坊様方もお身体大切になさってください。 失礼いたしました。

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情熱も冷めて怒り、虚無感、後悔

幼少からとある分野の技術を学んでおりました。将来それを使い独立したいと考え、20代で大きな団体で師が常時5、6人いる所に所属し直し、6年間学んだのち、半独立しました。 半独立というのは、その団体に所属し、定期的に講義を受けたり、費用を払い続けないとその資格者を名乗れない為です。 関わりを断つと資格も記録もなくなり今までの積み重ねがなかったことになります。 その団体の師の一人が私に特別当たりが強く、大勢の前でプライベートなことを質問したり、叱責したり、やたら高額のものを買うよう勧めてきたり、努力も結果を認められなかったりという事が続き、その分野で長年やってきても報われない悔しい思いも今まで蓄積していた為、虚無感が募り道具を見るだけで怒りと悲しみで耐えきれなくなるまでになり、心が限界になりました。 その師がいなくなるまで1度離れようと決め、2年間、費用だけ払い所属しつつも極力思い出さないよう過ごしていました。 半独立したはずでしたが収入にはできず、今は別の仕事をしています。 心の中で怒りと執着がずっとあり、辛いです。 心理学を学んだり、時間が解決するからと自分に言い聞かせたりしても、その分野で活躍している人を見聞きすると、心の中の地雷が爆発するような、怒りと嫉妬と、悲しみがごちゃ混ぜになった感情が度々おこります。 頻繁に感じる気持ちは、認められたくてあんなに努力したのに報われないという怒り、自信が全くなくなり好きだったものが避けたいくらいに嫌いになったという悲しみ、応援してくれた期待してくれた人に申し訳ない気持ち、理想通りにいかずダメになってしまったという後悔です。 気分が落ち込んでいる時、 こんなしょうもない人生を送ってしまったとぐずぐず考えてしまいます。 冷静な時は、そんなことくらいで馬鹿げてると思い直せるのですが、執着と後悔が消えません。どのように考えたら、前に進めるでしょうか。 その団体をやめて、もう一切かかわらないようにしようと思いつつ、ふん切りがつきません。自分の気持ちがなんとかなり、またやりたいという気持ちが強くなって復帰できる未来を望んでもいます。でもそう思い続けるのはただの執着かもしれません。 何か、その状況から脱するヒントをご教授いただけますと幸いです。

有り難し有り難し 17
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人は変わることができるのでしょうか。

実感を感じたいです。 何を見ても、心から感動することがなく、いつも頭で判断して動いている感覚があります。 何故か怒りだけ感じることはできるのに、それ以外の感情は作りもののように感じます。普通に生活をしていて笑ったり泣いたりしますが、同時に自分に向けて演技をしているような気持ちになります。 夢を見ている時にだけ、心から喜んだり、悲しんだりできるので、目が覚めるとがっかりし、目覚めなけれよかったという気分になります。 実感を得たいというこの欲のために、いろんな場所に出かけたり、人とあったり恋愛もどきをしたり、旅をしたり、本を読んだり、スポーツをしたり、芸術に触れたり、ものを作ったり、ただ何もしないでいたりと、試行錯誤してみましたが、それでも心が動かない自分にゆっくりと失望しました。いまは欠落人間の私は、結婚や子供を持つことも諦めたほうが良いと考え、かといって残りの人生の長さに虚しさを感じずにはいられないです。他人のために時間を使おうと、余暇にボランティアとかもやっています。それでも虚しさは埋まらないです。 私に信仰があればなと強く思う時もありますが、神や仏を信じることすら、頭でっかちの自分には無理なのかなと諦め、残された生の時間が恐ろしく、かといって死ぬことも恐ろしく(試したけどできませんでした)、毎日を宙に浮いたまま過ごしています。 寿命が尽きるまで、私はこのままなのでしょうか。

有り難し有り難し 25
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