掛け軸の開眼供養をしないでもよいですか?
真言宗の掛け軸
私以外の家族は信仰心が薄く、神棚と、棚の上に家族の宗派の仏壇がありますが、
私は真言宗が好きで、念珠も持ってお経も毎日読んでます。
ただ仏様を見て読みたいので
真言宗の掛け軸を自分の部屋に置きたいと思っていますが、ダメでしょうか
棚の上に仏壇なしになりますが……
本尊様はどの仏様でも良いですか?(個人的にお不動さんが大好きです)
また魂入れをやれないのですが、掛け軸に悪いものが入ってしまうのは嫌なので、できないなら、買わない方が良いでしょうか……?
やはり開眼供養は必要ですよね……
プロフィール 不登校で、スピリチュアルや仏教神道に興味ある者です。 来年卒業で、次は高野山高校の通信課程に入る予定です。その後はお坊さんになるのが夢です。 家族(特に母と私)は霊障があります。 宗派は今後母と改宗する予定なのは真言宗です。 お寺との関わりがほんとにないので、仏教に関しての事やお寺に関して質問させて頂きます。すみません。 父は結婚していない状態で別れました。 親族との縁も薄いので、相談に出てくるのはおばあちゃん、家族だと思います。
過去を悔やんでしまう
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
天眼 法眼 慧眼 仏眼 正法眼
大事なことは形の上での開眼をするということよりもあなた自身がきちんと仏眼を開くことです。
仏教を学ぶ、仏教を信仰するということは、言い換えればこの自分自身をより豊かに、大きく、聡明に、やすらかに、やさしい存在へと教導することといえましょう。
人間世界には人間の人間の都合による価値観、人間のものさしという人間のまなこというものがあるでしょう。
それは人間の目。人間のルール。人間の開眼でしかない。
目が開いていても見逃す、見過ごす、見落としている、気づかないという目もある。
たとえば、その掛け軸がいくらであるかとか、価値が高いとか、誰が書いたからこの掛け軸はどうだとか、それはみんな人間の価値観、人間の目のつけどころ。
あるいは僧侶の中にもきちんとした見識を持っていない者もいて形の上での形式的な開眼供養をして儲けようという輩もいるかもしれません。
そういう僧侶のもとで開眼してもらっても本当の意味での開眼供養にはならないと私は思っております。
ところが仏の眼、真実の開眼というものは違う。
私であればどうせ開眼をお願いするのであればきちんとしたお坊さん、先生と呼べるような立派な活動をされているお坊さんにお願いするとよいと思いますよ?お医者さんだって大事な人がガンにかかったのに、地元で評判の悪いお医者さんにお願いしても形式上の薬だけ出されて治るもんも治らんでしょう。
医者も僧侶も塾の先生も野菜も水も米もパンもエアコンも葬儀社も石屋も選ぶ時代です。
出所不明な意味の分からない開眼をするより、理知的できちんとした心眼を開いてくれる開眼を真剣に求める。
せっかく大事にしたい掛け軸、一生ものでしょうから、あなたの信仰する宗派のお坊さんで、ちゃんとした見識をお持ちの方に開眼供養をお願いされることです。
開眼をしなくてもいいかなぁというのもそれは人間の物差しでしょう。
観音に五眼あり。
👁真観。真実を見通す目。物事の真実真相を見通す力。
👁清浄観。人間の価値観や人間世界のルールに色付けされない清らかな眼。
👁広大智慧観。人間世界の小さなルールに縛られることなく、従来の小さな自分から脱却した広くおおらかな救いを見出す力。
👁悲観。人の悲しみ苦しみの声に同調してそれを取り除き救いをもたらす力。
👁慈観。人に安らかな心、安楽、聡明な心を与える救いの力。
これを機に仏の眼を開きましょう。
質問者からのお礼
ありがとうございます。真観。清浄観広大智慧観 観音経で聞いたような気がします。
お言葉大切にします。