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五戒を守れた人っているんでしょうか?

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ハスノハで質問の答えを見てみるとお釈迦様は王子様ということがわかりました。
そしてこう考えました、お釈迦様は一度くらい肉を食してのではないのかと。
もしかして五戒を守れた人っていないんじゃないかと思いました。
お釈迦様に失礼だと思いますがどうでしょうか?
本当に五戒を守れた人っているんでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一番の嘘つきは?

仏教の五戒律を守れるか。ということですね。
まず、五戒は
1不殺生戒(ふせっしょうかい) - 生き物を故意に殺してはならない。
    害虫とされるものはどうするのか?
2不偸盗戒(ふちゅうとうかい) - 他人のものを盗んではいけない。
    自然界にあるものは、誰のもの?
3不邪婬戒(ふじゃいんかい) - 不道徳な性行為を行ってはならない。
    常識ある人は、夫婦以外の人とは交わらない。
4不妄語戒(ふもうごかい) - 嘘をついてはいけない。
    正直を言えば、すべて収まるとも言えない。嘘も方便とは?
5不飲酒戒(ふおんじゅかい) - 酒類を飲んではならない。
    常識ある人は、酒に溺れない。現代では薬物も加わるでしょう。

お釈迦様は言われるように王子様でした。誕生されたのは現在のネパールですが、一般の民よりは管理された環境で過ごされ、郷土風習等それなりの食事をされていたでしょう。又、晩年亡くなられる原因は、腐った肉料理を提供(布施)されたものを食されたともあります。

仏教徒として、最低限守りましょうというのが五戒ですが、常識ある真面目な人は、これらを犯さないように自然に生きていると思います。しかし、人間関係においては、これらのことを何が何でも、かなたくなに守り続けることも難しいこともあります。
特別な環境の中で修行をするならば、これらのことを守ることもできるでしょうけど、だからと言って、人間として向上することとは別です。大勢の人の中で、そして多くの誘惑の中でも、自分自身を律して生きていくことの方が、大変な修行だと思います。
昔は相当数の戒律がありました。今でもそれらを守っている所もありますが、やはり、人と人のつながりの中でこそ、本当の仏教の教えが説かれていくのものだと思います。
自誓受戒(みずから誓いみずから戒を保つ:守る)ことの方が大切とありますので、五戒を守ることも大切ですが、それ以上に、自ら律することだと思います。
そして、一番嘘をつき裏切っているのは、実は自分自身へです。

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おきもち

日蓮宗のお寺で、名古屋市南区にあります。 ”お寺は生きている人のためにも...
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修行(トレーニング)は期間限定でもよい

お釈迦様は、出家してから生活スタイルを変えましたので、出家前の生活とは分けて考える必要がありますね。
さて、たとえば日本では春と秋に7日間のお彼岸があります。
この期間は、本来は、在家の人でも戒を守るなどの修行にチャレンジする期間です。
修行は心のトレーニングです。
たとえば筋トレやダイエットなどのトレーニングも、毎日できなくても、たまにやるだけでもやらないよりは良いと思います。
毎日完璧に守れなくても、たとえば「今日はお酒を飲まないぞ(休肝日)」「今週は嘘をつかないぞ」「冬の間は虫を殺さないようにしよう」「来月こそは不倫相手と別れるぞ」とかでも、心の成長にプラスになると思います。

戒律は、出家者むけだと250戒とか、たくさんの項目があります。
こんなに守れっこない。
でも、具体的な修行メニューをたくさん提示してくれているマニュアルだと考えた場合、お釈迦様はなんて親切なコーチなんだと思います。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

回答ありがとうございました、なるべく五戒を守り念仏を忘れないようにします。

さらに質問ありがとうございます、少しずつ頑張って五戒を守ります

「お釈迦様・ブッダ」問答一覧

釈尊の教えについて疑問があり悩んでいます

人生がつらいので少しでも楽になりたくて仏教の勉強をしているものです。 お釈迦様の説いた教えについて質問です。 最近、初期仏教の経典スッタニパータを読みとても感動しました。 その結果お釈迦様はこの世の全てが縁起によって繋がっており結局は全てが同一の価値ある存在である事を理解すれば最終的には自己に囚われることもなくなり現世の苦しみをなくすことができると説いているのではないかと自分なりに解釈しました。 しかしそう考えるといくつかの疑問が浮かびました。 スッタニパータでは父母や我が子に対する愛執を捨てる事を悟りへの道とする一方で、父母に従うことが幸せであり老いた父母を養わない者は卑しいと書いてあります。 しかし無我の境地を目指すのであれば血縁関係に固執してはいけないのではないでしょうか?何故父母に限定して言及したのでしょうか?目の前で父母と知らない人が同じ様に病気や貧困や老いに苦しんでいてどちらかにしか手を差し伸べられない状況の時、知らない人を切り捨てて親子だからと特別扱いして父母に手を差し伸べるのは果たして正しいのでしょうか?両親が仏法を汚す人間であってもそれに従うことが幸せなのでしょうか?  私の父親は酒に溺れた非常に暴力的な人間で犬や猫に対して無益な殺生もしていました。母も暴力的な人間でしたし噓つきでした。私はこの両親に従うべきだったのでしょうか?老後の面倒も見なくてはいけないのでしょうか? また怒りや嫌悪についても疑問があります。 スッタニパータでは怒りや嫌悪を煩悩とし捨てることのできないことをなまぐさと言い汚らわしいことだと言う記述があります。 しかし世の中ではしばしば想像を絶するほど卑劣で残忍な事が起こります。  例えば女子小学生に乱暴して殺害した犯人をたまたまニュースで見て犯人に怒りや嫌悪感を覚えるのはなまぐさなのでしょうか?実際に知り合いの僧侶はその事件について犯人を殺してやりたいとまで言っていましたが彼は僧侶失格なのでしょうか? 自分の周りでより強いものによって不当に傷つけられている弱者を見ても怒らず苦しみも感じないことが美徳なのでしょうか? 他の記述が自分の人生価値観を根本から変える素晴らしいものだっただけに、私はこの二つの疑問に苦しみ悩んでいます。 悟りを目指す僧侶の方々にお話を聞きたいです。

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真言宗と浄土真宗の中のお釈迦様

はじめて質問させて頂きます。 プロフィールに記載しておりますが、家族の問題を抱える中、昨年暮れに仏教の教えに出会い、本当に心が穏やかになれた体験を得る事ができました。 それまでの私は、実家が高野山真言宗のお寺とご縁があり、結婚後も実家の仏壇を預かり、月参りや納骨堂のお参りをはじめ、いろんな関わりを持ってきて、仏教と深く関わってきたつもりでした。 しかし昨年暮れ、心身共に行き詰まり疲れ果てた時に出会った教えは浄土真宗(真宗大谷派)の教えだったのです。 その時はじめて、今までずっとお寺に関わってきたつもりだったのに、「仏教の教え」についてほとんど何も知らなかった事がわかったのでした。 それから改めて今求道中なのですが、今まで聴いてきた真言宗のお経と、浄土真宗のお経がまったく違うのにびっくりして、元は同じお釈迦様なのに、どうしてこうも違うのか。 両派ともご本尊がお釈迦様ではないとはどういう事なんだろう。 両派の中の、お釈迦様の教えと、各ご本尊様(大日如来様と阿弥陀様)の関係性って何なのだろうと、今切実に知りたく質問させて頂きました。 私にとって真言宗は小さな頃からずっとずっと触れてきた大切な宗派であり、また浄土真宗は昨年暮れ、本当に行き詰まってどうしようもなくなっていた時に、私の心を救っていただいた大切な宗派なのです。 どちらも私にとっては大切な宗派なので、どうしたらいいのかわからない状況になってしまいました。 ただその中で、元はどちらもはじめはお釈迦様だったのでは?と思い至り、タイトルにある質問をさせて頂きました。 どうぞよいお導きがあればよろしくお願いいたします。

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