言いにくいのですが
師僧が、ヘンです。
お目にかかってもお金の話か、ほかのお坊さんの悪口ばかり。お経を唱えても何の役にもたたないとか、座禅を組んでも集中なんかできるわけないとか。一体どうされたのか、、、。
壮大な、でも怪しい事業プランに取り掛かっておられ、周囲は困惑。副住職さんのお諫めの言葉も耳に入らず逆効果で余計にいきりたたれます。
老人性鬱?認知症?
感情的、突発的な言動の奥に何か大切な教えがあるのかな?と、思ったりもするのですが、どうもそうではないみたい。
なにか、寂しいのかな?とか思ったりもします。
師僧として尊敬できない、、、。辛いです。どうしたものでしょうか。先輩がた、アドバイスお願いします
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
正師を求めるのなら、他に探すのも良いと思います
面会することも苦痛であるようなら、その方につくのはもう止めたらよいのではないでしょうか。禅宗では正師に出会うことが最も重要とされています。また、禅宗ではもともと修行僧は「雲水」と呼ばれて正師を求めて雲が行くように、水が流れるように諸方に行脚するものとされています。
ご存じのとおり、「出家すること」と「住職になること」は違います。目的が住職になることではなく、尼僧として仏道に精進していかれることであるとするなら、住職になる資格を得るためだけに尊敬もできない師匠のもとで悶々と過ごすよりも、正師を求めて色々なお寺や僧堂を訪ねて行かれたほうが良いと思います。
今日、テレビを見ていたら、手品の名人が出ていました。
この方は、尊敬する手品師が海外にいて、「弟子にしてほしい」と何度も何度もその人の所に出向いて、その師匠にも認められ、ようやくその人の弟子にさせてもらったそうです。
どのような世界でも、弟子と師匠の関係というのはそういうものだと思います。弟子の「この人の弟子になりたい」という気持ちと師匠の「この人を弟子にしたい」という気持ちがぴたりと一致して弟子と師匠の関係になるんだと思います。
私は本山に修行に行きましたが、修行させてくださいと門をたたいても、なかなか中に入れてもらえません。何時間も待たされた後に出てきた先輩のお坊さんから「何しに来た?」「そんな気持ちなら帰れ」などと怒鳴られ、それでもどうしてもお願いしますと言ってようやく入門が許されます。どれだけ道を求める気持ちがあるのかどうか試されているのです。
もしかしてあなたは、「誰でもいいから弟子をとってくれるお坊さん」を探して、弟子になったのでしょうか?それは師匠の探し方としては正しくないものだと思います。
質問者からのお礼
はい。わかりました。
光輝さま、コメントありがとうございます。
とても厳しい修行を誰よりも長く続けてこられ、滅多に弟子など取らない方です。わたしが多分最期の弟子になると思います。以前は多くのら人たちの尊敬を集めておられました。
突然、変わられたのです。豹変と、いってもよいでしょう。一般向けの説法会でも、お金と悪口ばかり。聞いていて辛い。
あんな方ではなかったのに。
鈴木さま。
さっきいただいたコメントにお名前を書き忘れて、失礼いたしました。今の師匠の姿は、わたしに何かを伝えてくれているのかもしれません。うまく言葉にできませんが、それでも道を進むつもりがあるのかと。考え過ぎかもしれませんが、敢えて醜態(言いすぎてます。すみません)を、さらしわたしの覚悟を問うておられるのかな。座禅を組んでもお経を読んでもなんかもならんよ、それでもいいんかい?
ああ、そうだったらいいのにな。
せっかくいただいた師匠とのご縁。清濁表裏いろんなこと、ひっくるめて学び続けます。ここでくじけては、いけませんよね。
百目鬼さま、コメントありがとうございます。当地の駅前で托鉢に立っておられる僧侶の方お二人と、言葉を交わすようになりました。詳しくは書けませんが、実に爽やかで、かっこいい方たちです。お金のことも悪口も、もちろん口にされません。女の身なので、雲水はむつかしいですが、捨てて捨てて捨て去るあの姿に憧れます。
アドバイスありがとうございます。今の師僧にとって、弟子の育成はかなり優先順位としては下のように見えます。ほったらかしの状態なので、これからは宗派を問わずに、あちらこちらのお寺や専門道場を巡って、いろんな僧侶の方とおはなししてみます。
そうするうちに、自ずと師僧との関係、継続か訣別かが、はっきりすると思います。
それにしても、大恩ある方(菩提寺の住職)なので辛いです。早く元の厳しいけれど人情に厚い和尚さんに戻ってほしいです。