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「悟りとは」問答(Q&A)一覧

悟りが得られないです

執着も捨てましたし、友人も恋人も物も殆ど捨てました。 生きていて色んなことを学んでもこちらで質問しても納得する回答は得られず日々悶々としています。 まず命への執着を手放す以外に残るものは今ありません。 しかし苦しみは消えません。 嫌な毎日です、それすら執着を手放しても苦しいままです。 1秒を我慢し続ければ耐えられると此方のサイトで言われましたが耐え続ける人生に何の安寧があるのでしょうか。 嫌な事も受け入れて、執着を捨て、全てを捨てて、あとは自分で死ぬだけです。 その死なない間にも嫌な事が沢山あります。 こんなに受け入れて、何も動じず、ただあるがままの苦しみを受け入れてるのにまだ苦しいです。もはや悟りなんてないのでは??? 例えるなら親を目の前で殺されて、まっいっかというレベルで執着を捨てていても苦しいままです。 誰か助けてほしいです。 悟りなんてないんじゃない? 私は科学ガチ勢だけど、死んだら解脱とかも無理じゃない? ただただ生まれつき運が悪いか、良いかの違いなんじゃない。 知的な障がいが脳にあればそもそも解脱する事は不可能です、それと同じで生まれつきの知能が低ければ高度な思考すらできません。 世の中運が良ければこの世界に満足して死ぬわけです。 つまり解脱も悟りもなくて、この世界で運が悪かった人が負け惜しみでそういう概念を思いついただけじゃね? ああ人生って意味不明すぎる。 このまま色んな人に説教されるか、曖昧な表現で反論されてこのまま人生続いていくんだろうな。。そしてその曖昧な表現の人たちもそのまま何の答えも得られず死んでいくんだろうな。

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この世に悟りなんてないのでは?

執着を捨てる事を前の質問で教わりました。 しかし、おそらくですがどんな人間もDNAレベルで執着を植え付けられていて仮に信じられないレベルのお坊さんが執着を捨てまくって生きてたとしてそれこそもはやお坊さんではなく飯もほとんど食べないホームレスかなんかではないでしょうか。 私は執着を捨てることで悟りを得るというのは懐疑的なのです。 まず考え方や解釈を変えても、火傷した皮膚に塩を塗られたら痛いし、知らない通り魔に家族全員殺されて解釈次第なんて思えないのです。 毎日の日々がここまで現在進行形で苦しくて色んなものを手放してて執着をなくしてるのに毎日皮膚に塩を塗られて幸福になれないし苦痛だ。 しかも、周りの人間は執着しまくって生まれつき色々なものを手に入れる。 ここまで地獄を見せられ全ての欲を減らして、普通に耐えられなくね? 次にこういう事を考えると坊さんに説法を色々教わりますが、それってつまり説法の理解する知性がないと一生悟ることはないのでは? 頭が悪く生まれて→間違いを犯して→説法されます。→また間違いをおかします。 つまり生まれつき(遺伝子的に)賢い人しか悟れない? また説法を知りまくったお坊さんこそが正しい生き方なのでしょうか? 仮に欲まみれのお坊さんがいたらそれが正解なの? やっぱり最近思うのは、この世に悟りなんて無くて苦しみは生まれつき分配される量が違って、執着を捨てる方法がなくただただ苦しみしかない世界ではないのでしょうか? おそらく、まともに悟りを目指して色々仏教勉強したり執着捨てるより、何も考えずに欲に執着して生きる美少女の方が幸福だろうしビルゲイツの息子に生まれるほうが幸福で不幸がないのではないか。 ここでの私の議題は、悟りはなく苦しみの量は生まれつき決まってるのではないか。 解脱こそがゴールならばそれこそこの世界からの抹消であり、抹消したくない者からしたら悟りなんてないのでは。 楽しく生きるならば、虐待されて死んだ子供はどう楽しく生きるのだろうか。 仮に人間界に生まれるのが解脱のチャンスならば、私が死んで輪廻を繰り返してその時に人間が絶滅してたら? 宇宙が生間ガスの関係で崩壊してたら? CERNのミニブラックホールで崩壊してたら? 悟りなんてないんじゃね? あるなら今すぐ誰でも幸福になれるはずだ。

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悟りを開くと、余計苦しみが増しませんか?

こんにちは。 色々と、仏教を学ばさせて頂いています。 ここの所、少し不思議に思うのですが、仏教の目指す境地は自他同一!との事。 自他の区別を無くして、他社の悩み苦しみもわが事のように受け止めるのが仏教者の理想との事。同事、とも言う言葉も知りました。 しかし、他人の苦しみもわが身の事として受け止めてしまうと、苦しみに押しつぶされるのではないでしょうか? テレビやラジオをつければ、やり切れないニュースが流れます。 児童虐待で子を殺した親、親に殺された子。 災害で一夜にして家族全員を失った者。 世界中で終わらない紛争に翻弄される人々。 もっとも、不幸な事だからニュースになるのでしょうが。 Happyな事は、滅多にニュースになりません。 悟りを開いた仏菩薩なら(実際に居るとして)、世界中のニュースを 居ながらにして知れるので、もうそれは大変な苦しみだと思います。 私自身「もうたくさんだ!」と言う思いでテレビやラジオを切ってしまう事もあります。 人の苦しみを受け止めきれずに、目をそむけてしまってます。 仏教者失格だな、と自分で思います。 悟りを開くと、心の安らぎが訪れると言いますが、逆に世界中の苦しみが我が身に降りかかる思いではないでしょうか? 悟った人、あるいはそれに近づいている人は、このような事実から目をそむけず、自分も苦しみに埋もれない為には、どのようにしているのでしょうか? 抽象的な質問ですいません。

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一般人でも悟りを開くことがありますか?

深刻な問題ではなく気になっている程度なのですが、質問をよろしくお願い致します。 仏門に入ったり修行を積んだりしていなくても、悟りを開くことはできるのでしょうか? 私は家庭環境の事情もあり、ほぼ天涯孤独な人生を歩んでいます。 病気・事故などで死にかけたこともありますが、その都度周囲の方々に助けてもらいながら約50年生きてくることができています。 その中で一つ一つの問題を自力で解決する中でたどり着いた結論があります。 簡単に表現すると、自身を取り巻く環境はすべて自分が決定している、というようなものです。 欲求をコントロールすることで環境は変えられ、安心安楽な生活を送れると考えています。 実際に一般的には余裕は全くありませんが、平穏・安楽な毎日を送ることができています。 仏教に関する教えなどを本で読むと、私にとっては当たり前の論理が展開されており、少々物足りない感じを受けます。 もちろん書物は一般向けの表現であり、実際はもっと複雑なものだと思います。 現在の生活環境で特に問題があるわけでもなく、自身の人生を全うすべき邁進する毎日ではありますが、この状態が悟りを開いた状態なのかどうかが最近気になっております。 仮に悟りを開いているとしても、論理的に理解できているだけでまだまだ体調の良くないときは欲が出てきたり、咄嗟に感情が表に出そうになることもあります。 まだまだ私の世界は狭く、もっと広い世界を見れば私の論理が通用しないことも出てくるとは思いますので見聞は広げていきたいと思っています。 悟りを開きたいという願望は特には無いですが、一般個人でも悟りを開くことができるのであれば、自分の意見に自信を持って周囲の人に助言をすることができるのでないかと考えています。(もちろん自分の意見として) これまでは、他者に不用意な発言をするのもある種の自己の欲求であることも判っておりましたし、天涯孤独という特別な環境に生活する個人の特殊な論理として自分の発言を控えていました。 しかしながら当然の帰結(私の理屈では)で悩み、怒り、ストレスを抱えている周囲の人の力になることも自身の存在理由なのかと感じることも増え、この度の問い合わせとなりました。 お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。

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悟りとは不可能なことなのでしょうか

なぜ、私たちは生まれてくるのでしょうか。なぜ、生と死が一つのものだと分からないのでしょうか。                                                                              なぜ生まれたら苦しみがあるのに、生きる楽しみに浸ってしまうのか。執着とは、罠のようなものなのでしょうか。                                                                                                      なぜ私たちは生まれてきた理由を知らないのでしょうか。なぜ浄土や輪廻があるか否かを知るすべを持っていないのでしょうか。                                                                                                 どうしてこの心は、真理とは違う方向に向かってしまうのでしょうか。私たちは生きているうちに悟ることができないのでしょうか。                                                                自分が愚かだと僅かに気が付いても、未だに愚かなのはなぜなのでしょうか。                                                                             

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悟りと解脱、輪廻転生について

こんにちは。 これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。 仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。 しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。 生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、 輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。 実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。 例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか? そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか? となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。 悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか? だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。 (ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。) 悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。 じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって 頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。 こんな考えって戯論でしょうかね? お考えを教えて頂ければ嬉しいです。

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