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本当に悟った時はどうなるの?

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本当に悟っているという状態はどのようなものなのでしょうか?
最近亡くなっている方の声がわかったり、その方の前世がわかったりすることがあります。
そして自分の前世もわかったりするのですが、その中にお釈迦様という人がいるそうなのです。
その方が言うには、このように前世や亡くなった方の声が聞こえることを悟りと言うらしく。
お坊さんは亡くなった方の言葉を伝えるためにお葬式をしているのでしょうか?
残念ながら僕は今までそういうお坊さんと出会った事がありません。
成仏していないのに葬式が終わったり、成仏しているのに何度も法事をしたり、それは何の意味があるのか僕には理解出来ません。
この声が聞こえるというのは僕の想像が作り出しているのでしょうか?
それとも本当の声なのでしょうか?
悟りの状態がわかるお坊さんは今日本にいますか?
是非お話ししてみたいのでご紹介下さい。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悟りの❝釣り❞には注意した方がイイでしょう。

私も学生時代から死にたくなって以来、悟りを求めるようになりました。
当時は何が悟りかもワカランままに、悟りってスゲーもんだと思っていました。
この時点で妄想濃度は濃かったと思います。ご注意ください。初めの一歩目から悟りに対して妄想を描く人は一生悟れない。妄想だもの。みつを

大法輪の「悟りとは何か」という本を図書館で借りて穴が開くように読んでいましたが、禅宗の修行で悟りを重んじている派がありまして、そこでホンマモンの老師に出会って悟りの内容を追求していった結果、そもそも世間の「悟り本」や悟り系の言及をしている人たちの9割以上が悟りのことを文章として書いたり説いてはいるけど悟ってない人が書いていることに気がつきました。
仏教の内容って「誰が」説くかが大事で、たとえ池上彰氏みたいなお話上手の人が開設したからってその話で悟りを得られる人なんて一人もいないのです。
悟っている状態とは曹洞宗風に申し上げれば、元々悟りも迷いもないくらいの完全な状態が人間には備わっているけど、そこを自身で見つめて明らかにしなければそこは見逃されてしまう。
過去のことが分かるとかなんちゃらは根拠や整合性があれば科学者があなたの家に押し寄せますが、そこまでのものかどうかは私は知りませんから、冷静になることです。

成仏とは故人を想うあなたの心の側が成仏しているかどうか=本当に成仏ということを明らかにしているかどうかであって、死んだ人が成仏するだのしないだのはみんな生きている人の妄想でしょうが。

そもそも世間が何をもって成仏と言っているのか。
ここをよく明確にしないうちから妄想の上で成仏とは死んだ人がキラキラするような状態になる事だと多くの人は妄信している。みな自分の妄想を相手にしているのでしょうが。
成仏を浄仏と混同しているような。

誰のどこかどうなることが成仏か。
まず、そこをきっちりと明確に子供か大人まで明確に分かるように説けないようではあなたの言うところの成仏もあなたの中では自分流成仏解釈であっても世間の人は認めません。
あなたの言われるところの「悟ったらこうなる」という人も壮大な❝釣り❞である可能性を疑った方がイイでしょう。
スピスピした悟りはどうか知らんですが、禅宗において悟りとはこの上ない明晰性。この上ないシラフさ。
情報や脳内の二次的妄想を捨ててから悟りを求めることをお勧めします。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

不思議な能力が身につきましたね。一方で悟りを得ることは、何か特別な能力が得られることではありません。
悟りについては過去にたくさん問答があるので、詳しくはこちらも
https://hasunoha.jp/questions?utf8=%E2%9C%93&query=%E6%82%9F%E3%82%8A&sort=&commit=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
つまり前世がわかったり亡くなった方の声が聞こえるということではないということです。尚私は専門家ではないのでわかりませんが、あなたのように見えない人の声が聞こえる病気があるようです。一度お医者さんにかかると良いと思います。

曹洞宗において葬儀は、亡くなった方をお釈迦様のお弟子さまにする儀式であり、亡くなった方からの言葉を伝えるものではありません。法事は亡くなった方に対する感謝報恩の儀式です。また法事を通してなかなか会えない遠方の親戚が集まるなど親睦を深める効用もあります。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

悟りとは??

悟りというもは、様々な方法で語られていますが、実際のところは悟った方にしか本当のところは分からない。ということでしょう。
お経の中にも「諸仏の智慧は、仏と仏のみ能く理解できるのだ」とあります。

亡くなった方の言葉が聞こえたり云々ですが、これは私の亡母は、亡くなった方を乗り移すことができ我々とも会話していました。いわゆる霊能者、霊媒師とでもいうのでしょうか。(もちろん信じない方もおられますが)そんなことは日常茶飯事でした。でもそれは信仰に導く、正しく生きるための手段の一つであって、それが最高というものではありません。もちろん、それによって多くの方も救われていましたが。
だからと言って「悟り」とは違うものだと、今は分かります。
まだまだ勉強中なので、難しいことは言えませんが、そう思います。

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おきもち

日蓮宗のお寺で、名古屋市南区にあります。 ”お寺は生きている人のためにもにある”と発願し、法筵寺を新寺建立。住職として41年になります。どこまで、その思いを達成しているか分かりませんが、少しでもお釈迦様、日蓮聖人の教えに触れて頂けたら思います。 FB https://www.facebook.com/kaisho.suzuki 法筵寺FB https://www.facebook.com/houenji/ 日蓮宗ポータブルサイト内 https://temple.nichiren.or.jp/3031069-houenji/

質問者からのお礼

ありがとうございました。

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