hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

悟り

回答数回答 2
有り難し有り難し 27

私くしも、仕事の事などで 自分自身の芯をしっかりもてなくて、常に気持ちがグラグラに揺らぐので
瀧行に真剣に行きたいと思ってはいるんですが
お坊様方が、行の中で 仏様の存在や何か悟られた事など ございましたら 教えて頂きたいです。瀧は心身共に清められ仏様と一体になれる様に思うので すが 、、、


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

法という滝を観ぜよ

サンズイに去ると記して法なり。
サンズイとは水の様子。
こじつければ過去現在未来、無量の水の流れ。
雲、雨、川、滝、霧、蒸気、海、虹、氷も命もみな水の様相。
わが身に今触れている水のカタチをしていない滝がいつでもそこに流れていることを知るべきでしょう。
それが、さっきから、今も、今後も続いていく。
ですが、過去と未来のことは体感ができない。
故に、今もこの文字という滝があることを知るべし、しるべし。
今聞こえている音という滝があることを知るべし、観ずべし、感ずべし。
今意識せずとも、この身心に入り来たっている呼吸という滝を観ずべし、感ずべし。
そこにワタクシがいない。
私という意識が伴わないままにも、それが流れ来たって去っていく。
来たるにあらず、去るにも非ず。
たった今、触れていることしかないはずです。
これから滝を浴びに行く用もないほどに人間は法の空、法の海という法水を授かっているのです。
そういう法眼を持たなければ、滝を浴びても水浴びに終わる。
そういう法眼を養わざれば坐禅しても座るだけで終わる。
念仏してもお唱えで終わる。写経しても文字の練習で終わる。
きちんと法を求める上での中身を提供してくれる指導者を求めるべきでしょう。
私も昨年、医者にかかってえらい目にあいました。
治せる知識やノウハウを知らない医者にかかっても結局治るものも治らんのです。
同じように、道を学ぶ、悟りを求めるのであれば、ちゃんと悟った坊さんの下で求めなければ絶対にカラぶります。
禅宗では飯田トウイン、井上義衍という方の流れをくむ人たちが目が開いた人たちです。
滝に打たれたければ行ってみてもイイでしょう。この冬は寒いですから、体を壊しても行かんですがね。そこで諦められなければ、上記のことも求めてみてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

岩瀧山滝行

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙寺は、昨年に滝行を再興いたしました。
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/76729374.html

その昔、修験道の開祖、役行者が開かれた行場が山麓にございまして、滝場もその一つであったと考えられております。

長年、歴史の陰に埋もれてしまっておりましたが、ふとした縁から、昨年に再興することができました。

しかも、女人禁制の行場が多かった中、古来から、当山は、女人の参詣が許されていたと伝わります。

それはさておき、もしお近くでしたら、またお声掛け下さいましたら、是非、滝行、ご案内をさせて頂きます。最初は、やはり夏場がおススメですが。。

岩瀧山・滝行修行ご案内・往生院六萬寺
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/77069127.html

しかし、「行」というのは、すればそれだけでご利益(りやく)があるというものではなく、いかに、六波羅蜜の禅定・忍辱・精進行とできるかというところも求められるものとなります。

例えば、坐禅だけで、滝行だけで、悟りを開けるというものではなく、確かなる菩提心、智慧と慈悲と共に、止と観の実践として行うことが大切となります。

御礼の内容から・・

師は、何よりも仏法を師と成すべきと、釈尊も「法灯明」としておっしゃられています。

また、よくダライ・ラマ法王様もご法話にておっしゃられておられますが、「師の教えを、ただ尊敬だけをもって受け入れるべきではなく、金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことをもって慎重に吟味するように、そのようにして師の教えも受け入れていくべきである」として、しっかりと一つ一つの教えを批判的、合理的、論理的に検証しつつ、得心して受け入れて参りたいものとなります。

ただ、師から教えを学ぶのではなく、師も介してながら、仏法を第一として学ぶようにして参りたいものであります。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

お久しぶりでございます。丹下様ご回答ありがたく思います。 丹下さんの言いたい事が何となくは 感じる事が出来ました。初めは また、高度な事を書かれるので
どういう意味なんだろう?って考えて考えて

何度も読み返し そして 自分に問うて
自分の中に降りてくる 言葉そのもの全てを受けとめました。解釈があってればいいのですが、、、 後、お坊様方って 自分の師は 一人なのですか?私くしは 管長さまの弟子なのですが
私くし自身が 自分の事でとても 苦しい時に手を差し伸べてくださったのが 副住職様だったので
この方も 自分にとっては 先生になってるんです。
それって 管長様に失礼なのでしょうか?

お久しぶりでございます
お瀧ご紹介頂きありがとうございます。今は自分がまだ するべき時ではなくお寺様に尽くす時なのでしょうか? ただ川口さんはお優しいですね。ありがとうございます。ハスノハのご縁でいつか 伺ってみたいです
その際は瀧行をさせて頂けたらと思います。
優しい川口様のお心を 嬉しく思います
師は色んな意味で沢山いてもいいかとも思うのですが
人脈という事でもあると思うので
私くしにとっては 人生の先輩は 皆様 ある意味師となるかとも思うので 華厳のちしきぶねでございます

「悟りとは」問答一覧

悟り体験と仏教との関わりについて

こんにちは 初めて質問させて頂きます。 私は仏教徒ではないのですが20年前に所謂悟り?のような体験をし、以来あの素晴らしい世界観が忘れられず、同様な体験のある方が居るのか知りたいと考えていました。 そのとき、私は宇宙の銀河ような広大な空間に居ました。数多の光が輝き、私はそのうちの一粒の光として存在し、すべての存在と一体感を感じて満ち足りていました。 私達の住む物質世界のしがらみや生物の本能から一切離れて2つの全く違う世界が存在することを知り、目が覚めた思いがしました。 2つの世界の存在を知り、ここには書ききれませんが、如何にこの世界での欲や争いが無意味か知り、死が怖くなくなりました。また、2つの世界を繋ぐものは何か考えてきました。 理想的には皆があの体験をして世界の構造を知れば争いなどなくなるようにも思いますが、しかし実現不可能なことも理解しています。 仏教はこういった世界を体系的に表して広めようとしているものなのでしょうか。私は自分の体験が素晴らしいと思っていますが、どう伝えてもとても他人に理解できるとは思えません。 逆に体験した方にはすぐに伝わると思います。 また、私の他にも同様の気持ちの方は居たりするのでしょうか?

有り難し有り難し 21
回答数回答 2

悟りや天国に優しさは必要ない?

仏教には、達磨大師など偏屈で冷淡な高僧が多い印象があります。自称霊能者の類にも、優しくない人がいっぱい居ます。悟りや天国に、優しさは必要ないのだろうかと非常に悔しく思います。それはきっと、私がなんの取り柄もない代わりに、「こんな優しい人を初めて見た」とよく言われるような人間だからだと思います。そう、まるで自分の唯一の強みが、天国へ行くために必要ないと世界から言われているような悲しさを味わったのです。ちなみに優しくない人とて地獄に落ちていいとは思いません、人類も動物もみんなで一緒に天国へ行くのが私の望みです。ですが、私は聡明で冷淡な人よりも、鈍重でも優しい人こそより高い天国へ行ってほしいという感想があります。ですがブッダを含めた高僧の多くが王族の出身であったりと、天国に行く人はヒンドゥー教でもカーストがあるように人柄ではなく家柄で決まるのだろうか、とも。 酷く冷淡な自称霊能者に突き放されて酷く傷ついたことも先日あったので、天国に行くために優しさが必要不可欠となるイスラム教に、2駅くらい先の寺院へ行って改宗しようかさえ思いました。ちなみに、「浄土教ならあなたも高僧以上の悟りに辿り着けるよ」と広報運動をしている人は居ました。 (実家は浄土真宗です) などなどについて、何かのアドバイスをいただけたら幸いです。これを見てくださっている優しいあなたにも幸福がありますように。

有り難し有り難し 20
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ