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悟り

回答数回答 2
有り難し有り難し 26

私くしも、仕事の事などで 自分自身の芯をしっかりもてなくて、常に気持ちがグラグラに揺らぐので
瀧行に真剣に行きたいと思ってはいるんですが
お坊様方が、行の中で 仏様の存在や何か悟られた事など ございましたら 教えて頂きたいです。瀧は心身共に清められ仏様と一体になれる様に思うので すが 、、、

2019年1月11日 19:10

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

法という滝を観ぜよ

サンズイに去ると記して法なり。
サンズイとは水の様子。
こじつければ過去現在未来、無量の水の流れ。
雲、雨、川、滝、霧、蒸気、海、虹、氷も命もみな水の様相。
わが身に今触れている水のカタチをしていない滝がいつでもそこに流れていることを知るべきでしょう。
それが、さっきから、今も、今後も続いていく。
ですが、過去と未来のことは体感ができない。
故に、今もこの文字という滝があることを知るべし、しるべし。
今聞こえている音という滝があることを知るべし、観ずべし、感ずべし。
今意識せずとも、この身心に入り来たっている呼吸という滝を観ずべし、感ずべし。
そこにワタクシがいない。
私という意識が伴わないままにも、それが流れ来たって去っていく。
来たるにあらず、去るにも非ず。
たった今、触れていることしかないはずです。
これから滝を浴びに行く用もないほどに人間は法の空、法の海という法水を授かっているのです。
そういう法眼を持たなければ、滝を浴びても水浴びに終わる。
そういう法眼を養わざれば坐禅しても座るだけで終わる。
念仏してもお唱えで終わる。写経しても文字の練習で終わる。
きちんと法を求める上での中身を提供してくれる指導者を求めるべきでしょう。
私も昨年、医者にかかってえらい目にあいました。
治せる知識やノウハウを知らない医者にかかっても結局治るものも治らんのです。
同じように、道を学ぶ、悟りを求めるのであれば、ちゃんと悟った坊さんの下で求めなければ絶対にカラぶります。
禅宗では飯田トウイン、井上義衍という方の流れをくむ人たちが目が開いた人たちです。
滝に打たれたければ行ってみてもイイでしょう。この冬は寒いですから、体を壊しても行かんですがね。そこで諦められなければ、上記のことも求めてみてください。

2019年1月11日 19:42
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有り難し
おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
☎お悩み相談 📞08020659278 法話禅会 毎週日曜3時より...

岩瀧山滝行

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙寺は、昨年に滝行を再興いたしました。
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/76729374.html

その昔、修験道の開祖、役行者が開かれた行場が山麓にございまして、滝場もその一つであったと考えられております。

長年、歴史の陰に埋もれてしまっておりましたが、ふとした縁から、昨年に再興することができました。

しかも、女人禁制の行場が多かった中、古来から、当山は、女人の参詣が許されていたと伝わります。

それはさておき、もしお近くでしたら、またお声掛け下さいましたら、是非、滝行、ご案内をさせて頂きます。最初は、やはり夏場がおススメですが。。

岩瀧山・滝行修行ご案内・往生院六萬寺
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/77069127.html

しかし、「行」というのは、すればそれだけでご利益(りやく)があるというものではなく、いかに、六波羅蜜の禅定・忍辱・精進行とできるかというところも求められるものとなります。

例えば、坐禅だけで、滝行だけで、悟りを開けるというものではなく、確かなる菩提心、智慧と慈悲と共に、止と観の実践として行うことが大切となります。

御礼の内容から・・

師は、何よりも仏法を師と成すべきと、釈尊も「法灯明」としておっしゃられています。

また、よくダライ・ラマ法王様もご法話にておっしゃられておられますが、「師の教えを、ただ尊敬だけをもって受け入れるべきではなく、金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことをもって慎重に吟味するように、そのようにして師の教えも受け入れていくべきである」として、しっかりと一つ一つの教えを批判的、合理的、論理的に検証しつつ、得心して受け入れて参りたいものとなります。

ただ、師から教えを学ぶのではなく、師も介してながら、仏法を第一として学ぶようにして参りたいものであります。

川口英俊 合掌

2019年1月13日 8:12
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有り難し
おきもち

川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

質問者からのお礼

お久しぶりでございます。丹下様ご回答ありがたく思います。 丹下さんの言いたい事が何となくは 感じる事が出来ました。初めは また、高度な事を書かれるので
どういう意味なんだろう?って考えて考えて

何度も読み返し そして 自分に問うて
自分の中に降りてくる 言葉そのもの全てを受けとめました。解釈があってればいいのですが、、、 後、お坊様方って 自分の師は 一人なのですか?私くしは 管長さまの弟子なのですが
私くし自身が 自分の事でとても 苦しい時に手を差し伸べてくださったのが 副住職様だったので
この方も 自分にとっては 先生になってるんです。
それって 管長様に失礼なのでしょうか?

お久しぶりでございます
お瀧ご紹介頂きありがとうございます。今は自分がまだ するべき時ではなくお寺様に尽くす時なのでしょうか? ただ川口さんはお優しいですね。ありがとうございます。ハスノハのご縁でいつか 伺ってみたいです
その際は瀧行をさせて頂けたらと思います。
優しい川口様のお心を 嬉しく思います
師は色んな意味で沢山いてもいいかとも思うのですが
人脈という事でもあると思うので
私くしにとっては 人生の先輩は 皆様 ある意味師となるかとも思うので 華厳のちしきぶねでございます

「悟りとは」問答一覧

悟りが得られないです

執着も捨てましたし、友人も恋人も物も殆ど捨てました。 生きていて色んなことを学んでもこちらで質問しても納得する回答は得られず日々悶々としています。 まず命への執着を手放す以外に残るものは今ありません。 しかし苦しみは消えません。 嫌な毎日です、それすら執着を手放しても苦しいままです。 1秒を我慢し続ければ耐えられると此方のサイトで言われましたが耐え続ける人生に何の安寧があるのでしょうか。 嫌な事も受け入れて、執着を捨て、全てを捨てて、あとは自分で死ぬだけです。 その死なない間にも嫌な事が沢山あります。 こんなに受け入れて、何も動じず、ただあるがままの苦しみを受け入れてるのにまだ苦しいです。もはや悟りなんてないのでは??? 例えるなら親を目の前で殺されて、まっいっかというレベルで執着を捨てていても苦しいままです。 誰か助けてほしいです。 悟りなんてないんじゃない? 私は科学ガチ勢だけど、死んだら解脱とかも無理じゃない? ただただ生まれつき運が悪いか、良いかの違いなんじゃない。 知的な障がいが脳にあればそもそも解脱する事は不可能です、それと同じで生まれつきの知能が低ければ高度な思考すらできません。 世の中運が良ければこの世界に満足して死ぬわけです。 つまり解脱も悟りもなくて、この世界で運が悪かった人が負け惜しみでそういう概念を思いついただけじゃね? ああ人生って意味不明すぎる。 このまま色んな人に説教されるか、曖昧な表現で反論されてこのまま人生続いていくんだろうな。。そしてその曖昧な表現の人たちもそのまま何の答えも得られず死んでいくんだろうな。

有り難し有り難し 50
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この世に悟りなんてないのでは?

執着を捨てる事を前の質問で教わりました。 しかし、おそらくですがどんな人間もDNAレベルで執着を植え付けられていて仮に信じられないレベルのお坊さんが執着を捨てまくって生きてたとしてそれこそもはやお坊さんではなく飯もほとんど食べないホームレスかなんかではないでしょうか。 私は執着を捨てることで悟りを得るというのは懐疑的なのです。 まず考え方や解釈を変えても、火傷した皮膚に塩を塗られたら痛いし、知らない通り魔に家族全員殺されて解釈次第なんて思えないのです。 毎日の日々がここまで現在進行形で苦しくて色んなものを手放してて執着をなくしてるのに毎日皮膚に塩を塗られて幸福になれないし苦痛だ。 しかも、周りの人間は執着しまくって生まれつき色々なものを手に入れる。 ここまで地獄を見せられ全ての欲を減らして、普通に耐えられなくね? 次にこういう事を考えると坊さんに説法を色々教わりますが、それってつまり説法の理解する知性がないと一生悟ることはないのでは? 頭が悪く生まれて→間違いを犯して→説法されます。→また間違いをおかします。 つまり生まれつき(遺伝子的に)賢い人しか悟れない? また説法を知りまくったお坊さんこそが正しい生き方なのでしょうか? 仮に欲まみれのお坊さんがいたらそれが正解なの? やっぱり最近思うのは、この世に悟りなんて無くて苦しみは生まれつき分配される量が違って、執着を捨てる方法がなくただただ苦しみしかない世界ではないのでしょうか? おそらく、まともに悟りを目指して色々仏教勉強したり執着捨てるより、何も考えずに欲に執着して生きる美少女の方が幸福だろうしビルゲイツの息子に生まれるほうが幸福で不幸がないのではないか。 ここでの私の議題は、悟りはなく苦しみの量は生まれつき決まってるのではないか。 解脱こそがゴールならばそれこそこの世界からの抹消であり、抹消したくない者からしたら悟りなんてないのでは。 楽しく生きるならば、虐待されて死んだ子供はどう楽しく生きるのだろうか。 仮に人間界に生まれるのが解脱のチャンスならば、私が死んで輪廻を繰り返してその時に人間が絶滅してたら? 宇宙が生間ガスの関係で崩壊してたら? CERNのミニブラックホールで崩壊してたら? 悟りなんてないんじゃね? あるなら今すぐ誰でも幸福になれるはずだ。

有り難し有り難し 6
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悟りを開くと、余計苦しみが増しませんか?

こんにちは。 色々と、仏教を学ばさせて頂いています。 ここの所、少し不思議に思うのですが、仏教の目指す境地は自他同一!との事。 自他の区別を無くして、他社の悩み苦しみもわが事のように受け止めるのが仏教者の理想との事。同事、とも言う言葉も知りました。 しかし、他人の苦しみもわが身の事として受け止めてしまうと、苦しみに押しつぶされるのではないでしょうか? テレビやラジオをつければ、やり切れないニュースが流れます。 児童虐待で子を殺した親、親に殺された子。 災害で一夜にして家族全員を失った者。 世界中で終わらない紛争に翻弄される人々。 もっとも、不幸な事だからニュースになるのでしょうが。 Happyな事は、滅多にニュースになりません。 悟りを開いた仏菩薩なら(実際に居るとして)、世界中のニュースを 居ながらにして知れるので、もうそれは大変な苦しみだと思います。 私自身「もうたくさんだ!」と言う思いでテレビやラジオを切ってしまう事もあります。 人の苦しみを受け止めきれずに、目をそむけてしまってます。 仏教者失格だな、と自分で思います。 悟りを開くと、心の安らぎが訪れると言いますが、逆に世界中の苦しみが我が身に降りかかる思いではないでしょうか? 悟った人、あるいはそれに近づいている人は、このような事実から目をそむけず、自分も苦しみに埋もれない為には、どのようにしているのでしょうか? 抽象的な質問ですいません。

有り難し有り難し 12
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一般人でも悟りを開くことがありますか?

深刻な問題ではなく気になっている程度なのですが、質問をよろしくお願い致します。 仏門に入ったり修行を積んだりしていなくても、悟りを開くことはできるのでしょうか? 私は家庭環境の事情もあり、ほぼ天涯孤独な人生を歩んでいます。 病気・事故などで死にかけたこともありますが、その都度周囲の方々に助けてもらいながら約50年生きてくることができています。 その中で一つ一つの問題を自力で解決する中でたどり着いた結論があります。 簡単に表現すると、自身を取り巻く環境はすべて自分が決定している、というようなものです。 欲求をコントロールすることで環境は変えられ、安心安楽な生活を送れると考えています。 実際に一般的には余裕は全くありませんが、平穏・安楽な毎日を送ることができています。 仏教に関する教えなどを本で読むと、私にとっては当たり前の論理が展開されており、少々物足りない感じを受けます。 もちろん書物は一般向けの表現であり、実際はもっと複雑なものだと思います。 現在の生活環境で特に問題があるわけでもなく、自身の人生を全うすべき邁進する毎日ではありますが、この状態が悟りを開いた状態なのかどうかが最近気になっております。 仮に悟りを開いているとしても、論理的に理解できているだけでまだまだ体調の良くないときは欲が出てきたり、咄嗟に感情が表に出そうになることもあります。 まだまだ私の世界は狭く、もっと広い世界を見れば私の論理が通用しないことも出てくるとは思いますので見聞は広げていきたいと思っています。 悟りを開きたいという願望は特には無いですが、一般個人でも悟りを開くことができるのであれば、自分の意見に自信を持って周囲の人に助言をすることができるのでないかと考えています。(もちろん自分の意見として) これまでは、他者に不用意な発言をするのもある種の自己の欲求であることも判っておりましたし、天涯孤独という特別な環境に生活する個人の特殊な論理として自分の発言を控えていました。 しかしながら当然の帰結(私の理屈では)で悩み、怒り、ストレスを抱えている周囲の人の力になることも自身の存在理由なのかと感じることも増え、この度の問い合わせとなりました。 お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 61
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悟りとは不可能なことなのでしょうか

なぜ、私たちは生まれてくるのでしょうか。なぜ、生と死が一つのものだと分からないのでしょうか。                                                                              なぜ生まれたら苦しみがあるのに、生きる楽しみに浸ってしまうのか。執着とは、罠のようなものなのでしょうか。                                                                                                      なぜ私たちは生まれてきた理由を知らないのでしょうか。なぜ浄土や輪廻があるか否かを知るすべを持っていないのでしょうか。                                                                                                 どうしてこの心は、真理とは違う方向に向かってしまうのでしょうか。私たちは生きているうちに悟ることができないのでしょうか。                                                                自分が愚かだと僅かに気が付いても、未だに愚かなのはなぜなのでしょうか。                                                                             

有り難し有り難し 19
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