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悟りと解脱、輪廻転生について

こんにちは。

これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。

仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。

しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。
生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、
輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。

実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。
例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか?
そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか?

となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。
悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか?
だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。
(ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。)
悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。

じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって
頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。

こんな考えって戯論でしょうかね?
お考えを教えて頂ければ嬉しいです。

仏教
有り難し 53
回答 6

質問投稿日: 2018年11月2日 6:02

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。
回答僧

淨流寺

転落院

あーなるほど!!

先日、銀行に行き、ATMの前で一人の老婆の後ろに並びました。
「もう一度最初からお願いします。」
ああ、おばあちゃん、間違えたんだなと思い、そのまま待っていると、
「もう一度最初からお願いします。」
あれ、おばあちゃん、また間違えたのかなと思い、引き続き待っていると、
「もう一度最初からお願いします。」
教えてやりたいが、よりによってATMだし。とりあえず待っていると、
「もう一度最初からお願いします。」
《ふりだしに戻る》
本当の事を知らないから、何度もやり直すことになる。これを【輪廻転生】といいます。

これを見かねた銀行員さんが、おばあちゃんに操作方法をレクチャーすると、おばあさんはたちまちのうちにATMの操作方法を理解し【悟り】、銀行に来た目的を無事に果たして帰っていった。【解脱】

繰り返しますが、
おばあさんは、ATMの操作方法がわからない【無明】が故に何度もやり直す【輪廻転生】羽目に遭ったが、行員さん【仏・菩薩】の手引き【教化】により、無事にATMの操作法を理解し【悟り】、ATMを自在に使いこなして目的を果たして帰っていった【解脱】

そう難しく考えなさんな。

”鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」”
セミにはなかなか善行などできまい。地獄・餓鬼・畜生・修羅にはほとんど無理だ。天人は苦悩がなくて有頂天になっているし、天文学的数字が並ぶくらいの寿命があるから「もう死ぬかもしれん」なんて我々以上に実感がないだろう。人間だけに、開悟や解脱できるチャンスがある。
さあ、今のうちだぞ。今生で必ず解脱しなければ、次はいつ人の身で生まれてくるかわからんぞ!?

16日前

輪廻とは、ものにものナイズされ、ことにことナイズされること。

ありもしないことをあたかもあるかのようにいう人は世の中には多いです。
こういうことをいうと、輪廻思想を信じているほとんどの坊さんを敵に回してしまいますがライトにご覧ください。
人は輪廻思想に輪廻されてしまっているのでしょう。
輪廻とは転ぜられること。
ものは本来「モノそのものの姿」を全うしています。
第三者がそのものを見たり、聞いたりしてその人なりの考え方をあれこれと思い起こす。
脳内で別物・べつごとにしている。
ここに自覚がないことが輪廻の本質でしょう。
庭の木を見て、あの木は邪魔だと思う。
毛虫がいるかもしれない。葉っぱが落ちて邪魔だ。
自分流の都合でものを扱うようになる。
すでに輪廻の虜なのです。
木にも草にも虫にも罪はありません。
人間が人間の都合でアタマの中の条件付けワールドで邪魔者扱いする。
それこそ実物そのままを見ていない迷いの姿でしょう。
自分の見方や考え方を1gでもつけ足したら、それは真実ならざる様子。悟りならざる様子。
法・道といわれるものや悟りや涅槃とは実物世界そのもののことです。
人間の見解によって着手される前の一切の現前世界。実物。真如実際。
たとえば、前世とか前前前世とか、来世とか来来来世とかいうと、すぐにファンタジーの世界に旅立つ。いま、ここにおいて存在しないことを取り扱いはじめて、地に足がつかなくなる。
アニメでも二次元でもみんな存在しないものです。
本人、当人がそっちの世界の方を好んで、肉眼や耳に感じていること、実際に触れられる生命やモノのの実感できることを相手にせずに、ほぼ脳内のおよそ妄想めいたものを相手にしているはずです。人間がそういう理想を描く力もあり、そういう理想に限りなく近い色カタチを再現する力も持っているからです。
ものに思わされず・ことに思わされず・思いにも振り回されないどっしりとした心が坐禅マインドです。座ることではありません。
法に住する。遠くの悟りにばかされるのではなく、元々の人間の持ち合わせの今の元々のシラフさ=悟りに安住する。法に安住する。見解以前の世界に安住すること。悟りとは悟りに用があるのではなく、目前世界が自分の想いによって色付けされなくなることなのです。
人は知らずのうちに見間違え・聞き間違えているのです。
そういう想念輪廻を自覚して、動ぜられない心に処すること。それが生きた悟りの具体的ありようです。

16日前
回答僧

無憂庵

法源

さとりの52位

悟りにも色々な悟りがありまして、段階があります。「さとりの52位」と言い、お釈迦様は最高位の仏覚(無上覚)です。

 有名なダルマさん(達磨大師)は、禅宗の祖であり、壁面九年と壁に向かい禅を続けられました。超人である忍耐の究極を得られた徳の高い高僧です。しかし、達磨大師は私はまだ30位くらいだと言っておられます。また、中国の天台宗の祖である天台大師は臨終の際にお弟子さんから「師はいずれの位まで悟られましたか?」と問われ「ただ五品弟子位(10段目より下位)あるのみ」と答えています。

お釈迦さまがお答えになられなかったことは、これもまた説法の一つでありますね。「答えないこともまた最高の答え」なのです。

死ぬと、来世では浄土に生まれ変わるから安心をと、言ってしまうと現世で生きている私たち衆生は皆、自死してしまい、この此岸(忍土)に修行をしに来ている意味を考えることを止めてしまいます。

六道輪廻からの解脱では、分かりやすいのがお盆と施餓鬼供養ですよね。餓鬼道や地獄道に落ちた人々(有縁無縁諸々)を救うには、僧伽(僧侶)に供物を捧げ読経してもらうことにより、救われるといった。

「密厳浄土」
天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道を生きていることで日々輪廻を繰り返すことを表してますよね。
仕事に疲れ、風呂に入ると極楽じゃ。イジメに遭い、誰かが救ってくれれば極楽なる解脱だ。など色々日常では解脱がありますよね。現世で救われることは法華経の中にある観音経の観音様の33変化により救ってくれていると考えることも出来ます。

この程度までを考え、悟りに近づくためには念念勿生疑を抱き、有限なる命の時間を中道を邁進することで、悟りの意味が理解されていくことでしょう。

さとりの52位では、簡単に言えば、頂上に到達された方は360度を見渡すことができ、途中の八合までであれば、景色は見えるが反対側はどうなっているかは分からない(悟っていない))と、なりますよね。

悟りの本質はお釈迦様のみです。まさに
「釈迦の前に仏なし。仏の前に釈迦はなし」とはこのことですね。

亡き後に仏道に入るなら、生きてる間に仏になってやろうではないかというのが「即身成仏」・・この辺りまでにしておきます。

このような質問はワクワクしますね。詠春さんは多くを学んでおられますことから、ご承知多きとあしからず。

合掌

16日前

業をお忘れではありませんか?

ご質問を拝読させて頂きました。

ご質問されている輪廻転生は、仏教が創始される以前より今日までインドの生活圏においては信仰ではなく、常識として捉えられているものです。
この輪廻は個人の行為によって発生するエネルギーによって起動されます。
このエネルギーが「業」です。
善き行為には善業、悪しき行為には悪業が積まれ、個人が亡くなった際にそれらが発揮されて、来世どの世界に生まれるかを決定します。

実際に釈尊が輪廻をどのように受け入れていたのかは分かりませんが、経典には在家信者に善業を積んで天に生まれる事(生天思想)を説いている記述がありますので、ある程度は受け入れていたと考えるのが自然だと思います。

しかし、釈尊は生きる事は苦であると考えていたので、いくら天に生まれても、それを良しとはしませんでした。
輪廻する事自体が苦と言えます。
だから、その延々と続く輪廻のループから解脱することを目指しました。
これが涅槃です。
ちなみに涅槃には二種類あります。
寿命が残っているときには有余依涅槃といって、悟りと言い換えることが出来ます。
寿命が尽きたときには無余依涅槃といって、解脱と言い換えることが出来ます。

先述したように、輪廻は業によって起動されるので、業を作らないようにしないといけません。
(※ここまでは通理解ですが、この先は私見が混じります。)
業は「身・口・心」から生まれます。
この三つの一番最初は心です。
個人が行為する際に「こうすれば、こうなるだろう。」という「計らい」をすることで発生します。
だから、我々臨済宗の祖である臨済は計らいを「作業」と呼びました。

悟りはセクトによっても指している内容がおそらく違います。
また、言語化するのはあまり好まれません。
言葉は記号であり、そのものをズバリと指すものではないからです。
それでも敢えて言うならば、この計らいをしない境地を悟りと言うように思います。

輪廻を信じるかどうかは個人の判断で結構かと思います。
インド圏内で暮らしていない日本人の私たちが輪廻を受け容れることは困難でしょう。
死後は無になるという考え方のほうが大多数かもしれません。
ただ、死後は無になると考える方がシュールなので現実的に感じますが、「死んだ後は分からない」という事実を前にすると、どちらも程度が同じ話のように感じます。

16日前
回答僧

大慈

悟りまとめ

相当なボリュームになりますが、いろいろまとめてみました。全部読んでいただいた頃には仏教のイメージがだいぶ変わっていると思います。

◯輪廻転生の背景
https://hasunoha.jp/questions/2883

◯輪廻転生は比喩?
https://hasunoha.jp/questions/12983

>一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?

ジャータカ(前生譚)のようにそう考える場合もあります。あるいは禅の公案「狗子仏性」や「南泉斬猫」のように「そこは着眼点としておかしい。善行悪行も無我が前提。個=全だぞ。」とする場合もあります。

>悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか?

Yesです。ただ輪廻を心の状態とするかどうかで読み方は変わってきますよね。
心の状態ならその人その時の心次第です。
仏教以前の輪廻説であれば、「体質と言うか、魂(?)の質が変わる」というのが近いです。アートマン(魂みたいなもの)に業(カルマ)が蓄積します。

ただ、インド神話(ヴェーダ)は矛盾する伝承を気にせず並記する平和な世界です。細かいことは気にしない。それがインド人です。

◯修行は完成するものか?
https://hasunoha.jp/questions/28818

修行を完成するという表現も使いますが、完成した結果、修行も悟りも手も脚もみ〜んな脱落してしまう…というロジックですので、最終的にはどの宗派でも上座部でも同じです。

◯輪廻転生へのアンチテーゼとしての悟り→縁起思想
https://hasunoha.jp/questions/26295

◯縁起思想からの発展
https://hasunoha.jp/questions/3160

◯だんだん悟りのニュアンスに違いが出てくる
https://hasunoha.jp/questions/12194

◯でも各宗派みんな一緒
https://hasunoha.jp/questions/26499

◯悟りの実践
https://hasunoha.jp/questions/12934

あと、苦から離れるのを悟り(仏道)、苦から救うため進んで苦に戻るのを悟り(菩薩道)と表現する場合もあります。ここも何気なく読んでいるとややこしい所でしょうね。

16日前

智慧と福徳の二資糧の集積

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

輪廻につきましては、転落院さんのお話、誠にわかりやすいのでないかと存じます。

蝉のお話については、蝉と生じる過去世の因縁による業の一つの結果であるものの、やがて、畜生界に生じて苦しむ因縁が尽きたのであれば、人間など、他の輪廻に生じる余地もあり得ることにはなりますでしょう。

また、蝉たちの鳴き声を聞くことで、その儚い一生を見て、私たちが無常の理趣を思い、発心を生じる因縁となれば、それは、その蝉の善業になり得る可能性もあるため、善業が積めることが全く無いとも言えないところでございます。

悟りとは、具体的には仏陀の法身と色身の二つの働きを有するお身体を成就することであります。もちろん迷い苦しみの輪廻の繰り返しは無くなる存在となります。

悟るためには、智慧と福徳という二資糧の集積が必要なものとなります。

二資糧を円満に積むことにより、智慧の力が法身を得る力となり、福徳の力が色身を得る力となるのであります。

また、私たち凡夫が悪業を積むことにより、迷い苦しみの輪廻に彷徨う原因である煩悩障と所知障を、二資糧にて断滅することも必要となります。

二資糧を仏道にてしっかりと調えることで、悟りへ向かって参りたいものになるのでございます。

川口英俊 合掌

16日前

質問者からの有り難し - お礼

ご回答ありがとうございます。
輪廻転生と言っても、お坊様によって解釈が色々ある事、安心しました。

転落院 様
大変わかりやすいお話、有難うございます。
地球には70億の人が居るのに、私は私として生まれた事、
さらに言うと哺乳類や昆虫、魚など、様々な生き物の総数を考えると想像もつかない個体数が居るのに、私は「人間の私」として生まれた事、本当に不思議な気持ちです。
人間として生まれた事に感謝して日々生きていきたいですね。

丹下覚元 様
悟りや涅槃は遠くにあるものでなく、「今ここ」に現前していると言う事、ご教授ありがとうございます。
一般向けの座禅体験になら参加した事がありますが、そこまで深い座禅マインドがあるとは思いませんでした。ただ座っただけですね。お坊様にも色々な輪廻観があるのですね。丹下師の輪廻観、ライトにと言うか深く噛みしめます。

法源 様
いやいや、私はわからない事だらけです。ご教授ありがとうございます。
悟りの52位、気になるのは我が国の空海大師や道元禅師がどの位置まで登ったかと言う事ですが、調べてもわかりませんでした。本人の自己申告が無かった、と言うか日本の僧侶はそれ程、悟り自体に拘って無かったと言う事ですかね。
密厳浄土のお話、その程度の解脱なら私も毎日経験してます(^^)
小さな解脱に感謝しながら日々暮らしたいと思います。
「即身成仏」は話が拡散しすぎるので質問には載せませんでしたが・・・機会あれば教えて頂きたく存じます。ワクワクして頂き恐縮です。

柳原貫道 様
ご指摘通り、業の考えが抜けていました。死後を「無」と考えれば業もぼやけますね。「どーせ死んだら無なら、生きてる内に好き勝手やりゃいーじゃん」て、まさに放逸着五欲になりますね。
その意味ではお釈迦様が「無」ではなく「無記」とした所に妙味があると思います。死後や輪廻転生の問題と同じく、業と言うのも難問です。しかも、死後や輪廻の問題に深くリンクしても来るので、話がさらにややこしくなります。宿題を頂きました。熟考してゆきたい所です。
ちなみに、死後を「無」と考える人が大多数だとすると悲しいです。個人的な印象では、日本人の死生観に一番近いのは浄土思想、それも輪廻を前提にしたものではなく、神道的な冥界の概念をベースにしたものじゃないかと感じてます。(浄土門の祖、法然上人や親鸞聖人の真意はどうあれ)
しかし「無記」の懐の広さは全て包みますね。深いです。

大慈 様
リンク拝読させて頂きました。かなり分量がありましたが、大慈師や諸師の輪廻観がわかってきたような気がします。
私自身、輪廻思想に拘り過ぎてたかもしれません。ただ、仏教と言えば輪廻と言うイメージが先行してるし、入門書には輪廻からの解脱と書かれるし、法華経などの経典も輪廻を大前提としてるしで、悩んでいた所でした。お坊様にも色々な考えがあるとは思いますが、(否定派はもちろん、肯定派の方にしても)必ずしも無批判に輪廻思想を受け入れてる訳ではないと感じました。安心しました。有難うございます。

川口 英俊 様
セミの善行のお話、なるほどと納得しました。
「蝉たちの鳴き声を聞くことで、その儚い一生を見て、私たちが無常の理趣を思い、発心を生じる因縁となれば、それは、その蝉の善業になり得る可能性もある」
このお言葉にハッとしました。うるさく鳴くセミですが、川口師の説法の機縁となった事で、全世界のセミに功徳が回向された事でしょう。
セミですら善行を積む余地があるのであれば、
人に生まれた身、尚更負けてられませんね(^^)
二資糧とは六波羅蜜の事でしょうか。自分にできる事からコツコツと実践していきます。

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