これは悟りですか?
こんにちは
初めて質問させていただきます
この数年間、仏教の本を読み考え瞑想したりしてきました
そして、ついこの間、瞑想していた際に表現しがたい体験をしました
言葉にするのが難しいのですが、一体感というか、全てが一つに感じられ、自分というものが消えたというか、輪郭がなくなったような体験です
そのあと、一時間にも満たない間、まとまりのようなものを感じることが続き、やがて普段の感覚が戻ってきました
その後の生活では、嫌だなあという感情が全くなくなったわけではありません
そもそも、この質問をしている時点で悟ってはいないのでしょうか?
悟りの自覚は明確なものなのでしょうか?
この表現しがたい体験は悟りではないのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
悟りと言いたいでしょうが、で、今どうでしょうか。
こんにちは。仏の世界からの派遣社員、正義の味方「サトレンジャー」(悟れんのかい)の一員「ジョー・悟りアーニ」です。
悟ったかどうかは自分でわかるものです。
「おー、これがさとりか」と思っても、その後の生活で喧嘩したり、些細なことで腹立てたり、凹んだりすれば、悟り効果はそこでおしまい。どうやらそれは悟りじゃなかったということが後々わかりますのでそれまでカン違いして頂いても大丈夫です。
禅宗ではそういう、いわゆる「悟り体験」はゴールではなくむしろ入り口です。悟りは一瞬の体験ではそれっきりで役立たずです。体験自慢で終わります。そこは「非思量」の始まりといったところです。坐禅や瞑想すれば能動的な意識が落ちて見が止む。すると思考の一念が生ずる以前の事実だけ様子になります。非思量。ノン・シンキングマインドと言ってもいいでしょう。そこに到ると、今まで思考ばっかりしていた人は大変すがすがしい気持ちになるのです。ですが、そこはようやく修行の始まりに立ったという所です。なかなか坊さんでもそこに行きつけないものですから、ご立派です。
福岡正信という宗教哲学者が若い頃、いわゆる悟りの体験をされました。ところが、その後、分析思考、哲学思考で結局その心を見失ってしまった。「神を見失った」と表現されています。
せっかく悟りの様子を垣間見ても、そこを掴んだり、オレは悟った、オレが悟ったという「わたくし」「主観」「オレ」を立てることで結局、元の様子に戻ってしまうということがあるのです。悟りは「わたくし」のない眺めですから、さらにそこを徹底するためにも禅では悟後の修行とか、大悟の徹底、没縦跡 (もっしょうせき)などと言いまして、悟りを握る自分も打ち捨てて、悟りの中身の方に徹底させていくのです。自分と法とが別々ではなく、法そのものになる。「俺が悟った」というのは一週間前に歯磨きしてきたぜ!といいながら臭い息を吐いているようなものなのです。問題は今どうか。今日は今日。もう悟ったその日じゃありません。お釈迦さまだって道元禅師だって悟った後も人生は続いています。決着がつく、参学が終わるということは一応はあるものです。
一度っきりの体験主義に陥らないことです。
悟りっぽい「体験」だけを重宝する人はスピ系にも禅にもいますが、問題は今どうかなのです。それ故に禅宗では一時体験としての悟ではなく「証」を重んじます。
禅定ではないでしょうか
世界や自分が消える(無常、無我)のではなく、世界と自分の「一体感」が出てきたのならば、悟りではなく禅定のほうではないでしょうか。
心を集中させて世界との一体感が生まれると、自他の区別がないのですから、慈しみの心が生まれます。これは通常の心ではなかなか生まれない貴重で偉大な善心です。仏教では、慈悲の心はわざわざ作らないと、自然に生まれるものではありません、とさえ言います。
この心は今後も頑張って作ってほしいです。
悟りは、集中して何かを観察していると、世界というか確固としてあると思っていた現象がすべて消える消える、あるいは生まれる生まれる、と一瞬ごとの生滅が見えてきて無常が分かります。観察している自分さえ、消える消える、あるいは生まれる生まれる、と見えてきて、無我が分かります。
そちらは智慧の心で、これも偉大な心です。こちらも頑張ってみてください。拙著『悟りの四つのステージ』(サンガ)が役に立つかもしれません。
智慧と福徳
ニック様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
瞑想・禅定の三昧における空性の体験を悟りと勘違いされる方は非常に多くございます。
また、無分別とか、離戯論といったことを悟りとしての誤解も多くございます。
空性の三昧、あるいは、等引というものは、比量(推論)ではなく、現量(直観)で「空」というものを理解することを志向するものとなりますが、その目的は、悟りの妨げとなっている障りとしての、煩悩障と所知障を滅していくためとなります。
簡単には、頭で考えるだけではなく、頭で考えなくても、「空」ということを理解する状態を目指して、瞑想・禅定における空の理解としての三昧(等引)智と、そして、瞑想・禅定から抜けた後に、空の体験理解を活かすこと(後得智)の実践により、まず、煩悩障を無くしていくことが求められるものとなります。
より詳しく述べますと、私たちはどうしても現れてくるものに対して、それがあたかも、そのもの自体において、独立自存として実体的に成り立ってあるように、囚われが生じてしまうものとなります。その実体への囚われによって、煩悩が生じてしまうところとなっております。
これは、仏教を学び進めていくことで、特には、「縁起と空」というあり方を理解することにより、頭では、「ああ、全ての現れには、何も実体として成立しているものはない」と理解はできるものの、その心の根底では、なかなかそのことが理解できない無明(根本的な無知)が控えてしまっており、頭だけの理解では、容易にその無明を退治することが難しいものとなってしまっています。
それを瞑想・禅定における空性の三昧・等引という直観の体験も通しながら、少しずつにでも退治していくことが必要となるのであります。
更には、空性を理解しながらによる現実世界での(後得智による)方便・功徳の実践も欠かせないところとなります。
空性を理解する「智慧」と共に、その智慧に基づいた方便・功徳の「福徳」という、二つの資糧を仏道によって積むことにより、やがて煩悩障と所知障を断滅することで真なる悟りへと至りたいところとなります。
共に頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌
拝読させて頂きました。
難しいことは諸師上人のおっしゃる中に真理が当てはまると思います。
とはいえ悟ってもまた元の木阿弥ではもったいないですよね。
せっかくそのような境地に達したならばそのような状況を続けられるようにこれからご精進なさって下さい。
そしてそこから周りの方々やご縁のある方々にも利他を施して下さいね。
逆に今まではイントロダクションでこれからが本題に入りますからね。
質問者からのお礼
丹下覚元さん、回答ありがとうございます
おっしゃる通り、今日は今日であり、人生は続きますね
「悟り体験」で終わらせないようにしたいと思います
藤本晃さん、回答ありがとうございます
おすすめされた本も確認してみようと思います
川口英俊さん、回答ありがとうございます
まだまだ、これからということですね
努力していきたいと思います
Kousyo Kuuyo Azumaさん、回答ありがとうございます
まさしく、これからだなと感じています
尽力します