出家した僧侶が結婚している。
仏教が好きで学んでいるものです。
単純な疑問があるので教えて下さい。
仏教は出家をして修行し仏になる教えだと学んでいます。
一般生活をしている私には遠い存在です。
しかし、現代の僧侶は結婚してお酒も飲んで在家の生活をしていますよね?
それでは全く修行ができないと思うのですが、何を根拠に結婚しているのでしょう?
何かのお経のご文を論拠にしているのでしょうか?
もしくは既に仏道修行は諦めたということでしょうか?
もし結婚をしていいのならば、何故一時的にだけ出家(修行)するのでしょうか?
各宗派の考え方を教えて下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「特別存在に」逃げない為
シャカもダルマもキリストもアンタも女性から生まれてきたでしょうが。回答のお礼を拝見しましたところ、賢明なアナタであればこれで十分でしょう。
まず出家だからなんだからと言って結婚や女性の存在を否定する時点で、昔はまかり通ったでしょうが、現代ではいくら仏教だろうが何だろうが人間の感性としてアウトだと私は思います。
だから曹洞宗の瑩山禅師は女人救済を強く訴えたのです。
女性の尊さを顧みずして、何の為の男女ですかい?
母親から生まれてこなかった僧侶がいましょうか?
母親、女性の乳を飲まずして育った僧侶がいるでしょうか?
関係性を尊重せずして出家も何もありません。
仏教だ宗派だのの仏教学屁理屈はどうでもいいっすわ。
宗教、仏教以前に男女があるでしょうが。
古代インドの差別的な思想をさらに上回り、結婚を認めた、という大きない一歩を踏み出した日本仏教こそは、世界に誇るべき最高の文化なのです。
あなたがその考えは違うと言われるなら、あなたが出家して、嫁さんほったらかし、母親もほったらかし、女性をほったらかして「これぞ出家だ」とかいって高みに立って仏ヅラすりゃいいでしょう?
そんなチープで時代遅れな差別的とも言われかねない思想が正しいとでも思っているのですか?
だから私は結婚しています。
結婚せずして家庭の苦しみの誰の何を救えるというのですか?
結婚もしていない僧侶に、夫婦、親子問題の現実の苦しみの何が現実的にわかるのでしょうか?
お釈迦様だって結婚され、子供や乳母を出家の立場に導かれたでしょう?
出家とは、そういう人間の観念、しがらみ、思想、考えなどから❝出つる❞ことをいうのであって、アタマ丸めりゃいいってもんじゃない。
仏教徒だから〇〇してはいイケない、というのはあなたの仏教に対する理想の押し付けでしょう。
修行とは、そういう考え、理屈を離れて、事実の世界に生きて、自らの考えに振り回されずに、ココロ明らかに生きる事です。
疑問があれば、お礼で質問せず、回答数が限られているため、新たに質問なさってください。
「物は持ってもそれを所有しようとするものは、ものに所有される。
無所得の所得は、それを持っていながらも、それに所有、支配されない。」
それが出家者の妻帯、結婚の姿勢です。
縛られていない、あり方が出家であり、無所得の所有であり、修行なのです。
浄土真宗は出家をしません。
浄土真宗の僧侶は出家をしない在家僧侶です。
私たちは出家(修行)をする必要がありません。
阿弥陀如来の他力本願による浄土往生成仏が全てなので、こちらの側でなにかする必要が全くないからです。
100%阿弥陀様のはたらきなので、僧侶も門徒もただただ阿弥陀様のお話を聴聞し、報恩のお念仏をとなえる日暮しを送るだけです。
つまり私の口から出るお念仏は阿弥陀様のお育ての結果であり、念仏を申すような身に私が育て上げられたということです。
浄土真宗は極楽浄土での往生成仏が目的であり、それは全て阿弥陀様本願力に任せるのですから、私のことは全く問題としないのです。
救世観音
シャ家族さま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。
面白いハンドルネームですね!
さて、仰るとおり「仏教は出家をして修行し仏になる教え」というのは間違いありません。それがそもそもの仏教だと思います。
ご質問に「何を根拠に結婚しているのでしょう? 何かのお経のご文を論拠にしているのでしょうか?」とあったので、その点についてお答えします。
私も釈心誓さんと同じく浄土真宗なのですが、宗祖 親鸞聖人は若い時に京都の六角堂に篭もり、救世観音が現れる夢を見たのだそうです。ちなみに当時、夢は神仏からの重要なお告げと思われていました。
夢の中で聞いた言葉は…
行者宿報設女犯 我成玉女身被犯
一生之間能荘厳 臨終引導生極楽
訳すと「もしあなたが因縁あって妻を持つとしても、この私(救世観音)がそなたの妻となって生涯を共にし、いのちを終える時には浄土へ連れてゆこう」となります。
また親鸞聖人の師である法然上人は、自身は持戒堅固な聖僧でしたが、人々には「妻を娶って念仏が勤まるなら結婚してもいいでしょう、妻を持たない方が念仏が励めるなら独身でいなさい。なによりも、お念仏が大事なのですよ」と説きました。
私にとっては、以上のことが根拠になっています。
また釈心誓さんへの追加質問ではありますが、私は浄土真宗の僧侶と信者の違いは「仏教に出逢い感動をしたか、否か」と「感動した教えを人に伝えようとしているか、否か」だと考えています。
であれば、仏教に出逢い感激し、人に伝えようとしている人は全て僧侶かというと、現実問題としては僧籍を得ているかどうかということが問われます。
ただ、仏教に感動し人に伝えたいという思いがある方は、そうでない僧侶よりも遥かに仏教者であると、私は思います。
追記
そうですね、私も親鸞聖人は非常に特異な方だと思います。
で、端的な言葉ですが、間違ってはいません。ただ、「念仏すればOKなんだって〜」というニュアンスではなく、どんなに修行をしても煩悩を消し切れない自己を認識することが大切なのだと思います。
結婚してても修行は出来ます。
仰る通り日本では戒律を破って結婚肉食飲酒をされている僧侶は多いと思います。
しかし、戒律は何のためにあるのでしょうか?
それは修行をしやすくするため、
仏の悟りに至りやすくするためではないかと私は思うのです。
家族を持つと確かに独り身であるときより修行はしんどくなります。
だからといって修行が出来ないわけではありません。
どのような環境の中でも修行をすすめる事は出来るのです。
逆に全ての戒律を守ったからといって悟れるわけではないと思うのです。
修行をする事が大切なのだと思います。
仏門に入るのは、本当に門をくぐるに過ぎないと思うのです。
それからの日々の修行がとても大切だと思います。
修行は他の特殊な世界でするのではなく
相手は常に自分の心です。
お坊さんは法事とお葬式をしているだけでは決して無いと思うのです。
追記:私は真言宗ですが、お坊さんになるための修行の時は
百日間 家族や俗世と一切離れもちろん肉食もお酒も娯楽も一切禁止で
携帯電話やテレビ新聞ラジオなど一切持たず、
もし家族の誰かが亡くなっても知らせられる事の無い状況で
肉体的にも精神的にもかなりハードな修行をしました。
でも、それはその修行が終った後に日々の中で一生修行を続ける基礎だったと私は認識しています。
日々の修行と言っても、自分というちっぽけなものが頑張るのではありません。
私という小さな存在の「我」というものを遥かに越える
大きな尊いもの(仏と私たちは呼んでいます)に全てを任せることにより
小さな自分を鏡のごとくすることで大きな仏さまが映り込んでくださる…
これ以上は書けませんが、そのように修行を続けて行きたいと思っています。
追記:真言宗の宗祖弘法大師空海の著作「即身成仏儀」の中に『加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく』という記述があります。
つまり、仏の姿が人の心の水面に映るのが「加」修行者の心が仏の姿を感じ取るのを「持」という意味であり、仏と人(行者)が照応して悟りの世界が現れます。
…それを私は『全てを仏様に…中略…仏さまが映り込んでくださる』と私の日々の修法(約2時間)の体感から表現しました。表現が悪ければ申し訳ありませんでした。
追記2:師匠を見つければ修行が出来ます。
質問者からのお礼
釈心誓様
浄土真宗の立場はよくわかりました。
確かにそのおしえであるならば出家をすることの必要はないですね。
お任せしておくというのは、とてもわかりやすいです。
阿弥陀如来のはたらきが本当であるならば、それが自然かもしれませんね。
であるならば、僧侶と信者の違いは何ですか?
悟東あすか様
その生活をしていて仏になれると確信していますか?
戒律を守ることが修行であって、戒律を守らなくても修行できるというのは、明確におかしいと思います。
「大きな尊いもの(仏と私たちは呼んでいます)に全てを任せることにより…」これは修行しなくてもいい、浄土真宗の教えじゃないですか?
釈心誓様
浄土真宗の立場はよくわかりました。
確かにそのおしえであるならば出家をすることの必要はないですね。
お任せしておくというのは、とてもわかりやすいです。
阿弥陀如来のはたらきが本当であるならば、それが自然かもしれませんね。
であるならば、僧侶と信者の違いは何ですか?
悟東あすか様
その生活をしていて仏になれると確信していますか?
戒律を守ることが修行であって、戒律を守らなくても修行できるというのは、明確におかしいと思います。
「大きな尊いもの(仏と私たちは呼んでいます)に全てを任せることにより…」これは修行しなくてもいい、浄土真宗の教えじゃないですか?
悟東あすか様
表現は悪くありません。
こちらこそズケズケ聞いて申し訳なかったです。
日々の修行とは具体的にどのようなものですか?
私でもできるでしょうか?
浦上哲也様
ハンドルネームにお褒めの言葉ありがたいです笑
親鸞という僧侶は特異な方ですね。
では端的に言えば「念仏を唱えれば修行をしなくても仏になれる」ということでしょうか?
丹下 覚元様
そもそも論点が違います。
社会構造や差別の話をしているわけではありません。
問答をしにきた訳でもありません。
「出家をして仏門に入った方が何故結婚しているのか?」と純粋に疑問なのです。
異性が好きで、世俗を捨てられなくて、結婚しているのであれば、それはもはや出家ではないと思うのです。
だから「何かしら論拠・根拠になるものがあるのでしょうか?」「もう修行を諦めたのでしょうか?」と尋ねているのです。
お釈迦様の話を出しておられますが、お釈迦様は出家をした後に結婚なさったわけではありません。
元々釈迦族の王子であり結婚なさった後に、全て捨てて出家なさったのです。
>仏教徒だから〇〇してはいイケない、というのはあなたの仏教に対する理想の押し付けでしょう。 私の理想ではなく仏教の戒律の話をしているのです。
新しい質問をするので、お答え下さい。