信心がない人の仏教入門の方法を教えてください。
初めて質問させていただきます。
結婚を考えている相手が、とても生活と宗教が近い人です。実家が高野山の真言密教?を信仰していて、お寺さんのところによく行き、地域の人がそこへ相談をしたりお経を読みに行ったりする感じです。(一度訪れた折に、お寺さんに連れて行ってもらい、彼との相性を見てもらいました。おっさま曰くあまり相性は良くないみたいです。。ですが現在妊娠してるので結婚すると思います。)
彼の部屋には空海の絵と水が備えており、彼は日々お守り持たない日はありません。
私の母親の実家は信心深く、毎朝の読経やお供え?をかかさない家ですが、私自身生活していた実家は仏壇はありますが信心深くありません。お盆のお墓詣りなど、近所に見えるところだけします。
彼の育った環境も、それに関わる人々もとても温かく、うまく言えませんが、仏様に愛されている人、という感じを受けました。母の実家もそんな印象です。仏壇の周りが明るいというか。。
うちの仏壇は暗くてなんだか近寄りがたい印象です。実際に、帰省した折のお菓子を備えて手を合わせるときぐらいしか行きません。
私自身は信心のなさや、食への執着や自立出来てない心もあり、なんだか一緒にいるのが居た堪れない気持ちを感じます。憧れもあるのかもしれません。
なので、彼や母の実家の人々といても気後れしないよう、信心があまりない私ですが、仏教に入門したいなと思います。
何から始めれば良いのか全く分からず相談させていただきました。
前置きが長くなってしまいましたが、
日々の読経を含め、行いや心持ちなど、ご指導いただければと思います。
彼や両親に相談すれば良いと思われるかもしれませんが、気にしなくていいと言われてしまいますし、知らないことや信心がないことが恥ずかしく中々強く聞けないでいます。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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仏足頂礼
だまさん様
釋 慧心と申します。
拝見させて頂きました。
素晴らしいお心掛けで、読ませて頂いておりまして、非常に何か嬉しい気持ちになりました。
また、お仏壇の周りが明るい、という表現も非常に素敵ですね。
仏様に愛されている。本当にお感じになっておられるまま、その通りだと思います。
さて、信心でございますが、一般に「信心する」という表現がございますが、信心は「するもの」ではございません。
信心は仏様から「いただくもの」なんです。
(お宗派により少し表現、ニュアンスが異なるかも知れません。悪しからず。)
まず、是非とも、お敬いすることからおはじめ頂けましたら如何でしょうか。
だま様の、ご質問の文章に非常に感激をしたのでございますが、一点だけ、空海様、弘法大師様のところだけが引っ掛かってしまいました。
是非とも、敬称をもってお呼びさせて頂きたいものです。
学者の方でもよく学術的な研究の書物の中や公演で、宗祖や高僧方を呼び捨てにされているのを目にしますが、本当に残念で成りません。
話が飛んでしまいました。
以前に、あるテレビ番組で日本でお住まいのネパールの方が、実家に帰って、日本の生活を実家や実家のある村の方々に見せたい、報告をしたいというプログラムがございました。
日本から、飛行機、車、そして徒歩で山岳路を歩き、およそ3日かかって、村に到着されるのですが、
疲労困憊の中、まず、何よりも先に、出迎えられたお父様の足元に土下座のような姿勢で、自らの額を足に擦り付けるようにされ、
「只今戻りました!おちち上様」と申されておられました。
最上のお敬いの姿です。
仏足頂礼(ぶっそくちょうらい)という言葉がございます。
仏様や、師、親に敬いを表す姿で、まさにネパールの、その方のお姿です。
そこまでは出来ずとも、仏様や恩師、親に敬いを持って接し、教えやお言葉、またお姿を素直な心で頂くことが、私の濁った心に必ず透き通りし宝石のような信心をもたらして下さいます。
具体的には、いつもお仏壇やお玄関、家の周りを綺麗にお掃除することなどからも、敬いの心は養われます。
敬いの心は、やがて間もなく帰依する心に繋がります。
素直に帰依する心は、信心をお受け頂きますのに一番大切な受け皿です。
ゆっくり頑張ってください。
「四聖諦」
だまさん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
仏教は信仰も大切ながら、それよりも実践思想哲学的な側面も強くございます。
是非、これから仏教を少しずつでも学ばれつつに、実際の生き方、人生における実践にもお役立てを頂けましたら有り難くに存じます。
お釈迦様による教えはたくさんございますが、そのもともとの原理は何かと申しますと、お釈迦様がお悟りを開かれてから始めて教えをお説きになられた「初転法輪」の中で説かれました「苦・集・滅・道」の四つの聖なる真理「四聖諦」(ししょうたい)となります。
それは、例えば、私たちは、代表的に八苦する中にありますが、それらの苦しみには、その苦しみという結果へと至らしめている因縁(原因と条件)が必ずあって、苦しんでしまっているのであって、その苦しみをもたらしてしまっている因縁を何とか解決して、より良い結果へと向かわしめるための因縁へと変えていくことができれば、やがて、苦しみを滅することができ、更に、仏道の実践によって、悟り・涅槃へと至るための因縁もしっかりと調えていくことで、いずれ、悟り・涅槃へと至れることになるものであるとして、そのための方法論を、お釈迦様が、対機説法、善き巧みなる方便(善巧方便)を駆使なさられてお説きになられております。
ですので、これから仏教を学ばれていかれる際にも、少し上記の「四聖諦」を意識されながら理解を進められていかれると良いかと存じます。
共に頑張って参りましょう。
八苦・・「生・老・病・死の他に、愛するモノ・コトとも別れなければならないという苦しみの愛別離苦(あいべつりく)、憎しみ怨むモノ・コトとも出会っていかなければならないという苦しみの怨憎会苦(おんぞうえく)、(実体的に)求めても得られず満足できないという苦しみの求不得苦(ぐふとっく)、心身共の作用が盛んに働いていることによる苦しみの五蘊盛苦(ごおんじょうく)」
川口英俊 合掌