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仕事を続けるべきか

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私は母の紹介で、七福神を祀るお寺で受付や雑務をする仕事をしています。

勤め始めて半年ほどたった頃、住職(女性)に参拝客への対応が悪い事と、口数が少なすぎる事を指摘されました。

もともと接客は苦手で、口数が少なすぎることも長年気になっていました。思いきって精神科を受診したところ、珍しい精神病が見つかりました。

病気を理由に退職を願い出ましたが、受け付けてもらえませんでした。周辺のお寺からつま弾きにされていて、私の代わりが他にいないそうです。

辞められないまま1年近くが経ちました。精神的に参っていますが、修行だと思って続けるべきでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

病気を肯定した方がイイ人 しない方がイイ人

私のお勧めは、医師から心の病気と診断されてもそれを安易に認めない態度によって、心を病気状態に自分が❝させない❞ことです。
自分の人生の主人公は自分です。人からの評価や診断ではありません。
体の病気には根拠があります。心の病の分野は微妙な分野もあります。
全国の精神科医を敵に回してでもこれを言い続けていくつもりですが、安易に医師が「アナタ病です」といったからって精神の病であると認めてしまわない方が、心の為にはイイ場合がある、ということです。
医師はむしろ病ではないと商売にならんからです。もちろん素晴らしい名医もいます。でも、まずは、自分が認めてしまうと、本当にそれによって病気になってしまう、暗示にかかってしまう、という事があるものです。自己認定に陥らない、ということも大事にしてください。(/・ω・)/
他人の無責任な判断や、自分が病気であると❝思わされた❞の思いに屈服しないことです。
24時間、一分一秒たりともずっと病気状態である、といえましょうか。
病気でありながらそれを忘れている時は、何と名づけましょうか?
それが心の病気であると認定された時と、その15秒前と、今と、心の様子の何がどう違うのかを実質的に探る必要があります。それでも病気であることを認めた方が良い人はそれでいいのですが
「私は病気だから」
「病気のせいだ」とネガティブになってしまわないようにしなければいけません。
禅では、❝認めるな❞❝くらまされるな❞と言われます。
たとえば「自分は短気なので( `ー´)」「自信が無いので」「優柔不断なので(._.)」などと、自分を枠に当てはめてしまう人たちには強烈に厳しく否定します。それは目を覚まして頂きたいからです。
そこに陥って自分を小さくしてはならないのです。
本気でやめたきゃ、行かなきゃいいんですよ。
それも、自分がやめられない状態を認めて、できない、やめるべきではない、と決めてかかって認定しているからなのです。
思い、ためらい、躊躇する前に、行動です。
もし、あなたに正すべきことがあるとしたら、そこではないでしょうか。
それを治せば、病にもかからない強さを得られるはずでしょう。
「辞めさせていただきます。」
「こまります。」
「いいえ、辞めさせていただきす。あたらしい方を募集なさってください。失礼いたします。」

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答、ありがとうございます!

自分が辞められない状態を認めて、やめるべきでないと決めてしまっている。正にその通りだと思いました。

年度末が近づいていることもあるので、一歩踏み出してみようと思います。

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