無分別智
無分別智をわかりやすく教えて頂けませんでしょうか?
特に蹴落とし社会における無分別智の実践をお坊様はどのようにお考えなのでしょうか?
お忙しい中、恐れ入りますが、ご回答を宜しくお願い申し上げます。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
非思量
自分の私的な見解をそこに持ち込む以前の様子です。
ウナギや焼き鳥にタレを塗れば、素材がタレの味に変わる。
同じように、思考やイメージを相手に塗りたくれば思考のタレに染まる。それが分別智。
反対に相手や物事に出会った瞬間、そこに自分の思いのタレを塗らずに白焼き・ノンドレッシングのままにそれをそれとしらずそれを見る、聞く、処することが無分別智です。
たとえば、以下のものをご覧ください。
〇△☐!
これがただこの通りにある。
〇△☐
今この文字・記号を見た瞬間
いきなりパッと〇△☐が映る。
〇△☐とあれば、これがあなたの身の上にはいきなり〇△☐。
頭の中で名称や認識、分別が生ずる以前に、ただ〇△☐。
そこに「まるさんかくしかく」という名称やラベルが付いていないでしょう。
職場の人達に対しても善し悪しや好き嫌いの判断をそこに生じさせる以前の心(様子、状態)があなたの上にある。
ところが、多くの人はそこが早すぎて見逃している。
だから坐禅や瞑想をして真実相を見極める必要がある。
俊敏・微細な心の動きが働きだす0・1秒前のまっさらな事実を見極めることができ、日常に反映させることができるからです。
実際、この理屈を聞いただけで無分別状態にならないでしょう。
それはあなたの中で知識化され、分別智として機能しているから。
こちらが無分別をお伝えしていても人によって脳内で知識・分別智で理解されているからです。
だから、思考・思量・シンキングマインドをやめてしまえばいい。
やめるには第一時点の感受のままでおればよい。
「オイ!」
と言われても「OI!」という感受のまま。
事に出会った出会い頭の時点における「ことの真相」を思考抜きで見ればよいのです。
坐禅瞑想といっても、ただ独自に坐禅・瞑想しても無意味です。
無分別智・非思量・不識」に導ける指導者がいるかどうかが大切です。
これも文字ですから限界があり、あなたが会得されたかどうかの真の確認ができません。
都内で開かれている井上貫道老師の坐禅会にご参加ください。
こういう文字より明確に会得されるでしょう。
こうして文字で読むとどうしても読む側の人の頭の中で分別智として現れてしまい分かった気になるだけで実社会で役に立たないからです。
それがそれ。それをそれと知る前からすでにそれ。それとも呼ばず、それとも識せず。
THIS IS IT
善悪、白黒、好き嫌い、損得、以前
今わたしは、息子のためにカブトムシを捕まえるトラップの餌を作ってます。
バナナ、焼酎、ドライイーストを混ぜ混ぜするそうです。分別するとき、人はすぐに好きだの嫌いだの始めます。気持ち悪いだの虫なんて嫌だの。
無分別とはそれ以前を言います。
つまりバナナを見たらだだそれ。バナナとも認識する以前。いいも悪いもないでしょう。しかし、見ると無意識に分別をはじめる癖があります。
ですから、物事に出会ったとき、そのままありのままでいる。それが無分別、悟りです。
無分別智について
感謝丸様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「無分別知(智)」についてでございますが、まず、「分別知(智)」と共にそれぞれ二段階で考える必要があるのではないかと存じております。
分別知について・・
無明・煩悩による影響のある分別知(真実執着・真実把握・迷乱知・顛倒知など)
無明・煩悩による影響のない分別知(後得知・正理知・比量了解に近い分別知など)
無分別知について・・
顕現しているものに対する無分別知(後得知・正理知・比量了解など)
(幻の如き空性)
無顕現に対する無分別知(三昧・等引知・現量了解など)
(虚空の如き空性)
分別知は、特に言説知・言説量によって把捉されたるモノ・コトとなり、「無明・煩悩に犯された言説知・言説量と無明・煩悩に犯されていない言説知・言説量」による二通り、無分別知は、「顕現しているものと、顕現していないもの」の二通りを対象にしていると考えることができます。
かなり以前における拙図式となりますが・・
拙理解仏教図式No.7(2014.6.14)
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/f11483ea1a2eb35ce5dcda72284b2bfa
上記拙図においては、空性へと向かう知(智)が正しい無分別知の理解において大切になるのではないかと考えております。
しかし、ここで注意しなければならないのは、「無分別知」=「悟り」という勘違いでございます。
これは、よく一般的な仏教理解においても間違われてしまいますが、仏陀・如来となるまでは、「善い分別と悪い分別」、「善い無分別(空性了解)と悪い無分別(悪取空など)」(更に厳密に言えば、中性の分別と無分別もあります)があり、仏道においては、善い分別・善い無分別を慎重に選択して修行を進めていかなければならないのではないかというのが現時点における拙見解でございます。
そして、更に、上述における善い分別・善い無分別(つまり、善業や無明、所知障を対治することになる分別、無分別)をしっかりと見極めていくためには、「勝義諦」と「世俗諦」の二諦の意義を理解していくことも求められるものとなります。
是非、二諦につきましても併せて学ばれて頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
川口英俊 様
ご回答をありがとうございます。
有り難く参考にさせて頂きます。
邦元 様
カブトムシのトラップの餌を手作りなさるのですねぇ(驚) 素敵なお話のおすそ分けを、そして、明快なお答えをありがとうございました。
丹下覚元 様
いつもエッジの効いたユニークなお答え拝読させて頂いております。
二元性の色がつく前の素材そのまんまのまっさら感が蹴落とし社会でどのように活かされるのか…『無分別智の体現とリアル』に乖離が在り、リンクする奇跡の瞬間に恵まれることは稀です。ご提言頂いたように、坐禅会への参加を考えてみます。
貴重なお時間をさいてのご回答をありがとうございました。