今までの過ちの懺悔の仕方
私は、これまで自己中心的な性格で色んな人を困らせていました、意見が合わない人には裏で悪口を言ったり、約束を守らなかったり、相手が真剣な話をしているのに私は興味のない話をなら、ふざけた行動をとったりとしており、本当に恥ずかしい学生生活をしていました。
友達が一人もいなくなり、初めて私の性格の悪さを考え直し、今現在は人のやくになりたい、社会に貢献したいと日々努力しています。
私の家系は、浄土真宗なのですが、過去に人を困らせたことを懺悔するに、家にある仏壇でよろしいのですか?
やはり、お寺へ行って念仏を唱えた方がいいのですか?
心を改め、新しい自分に生まれ変わりたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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今までの悪行をこれからの善行を持って功徳とする。
お釈迦様のお教えの元、どんな罪業も懺悔文をお唱えし悔い改め心より善行を行うるならば消滅する事ができます。ご安心下い。
(懺悔文)
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)
従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
<意味>
私が、過去に行ったあやまちは、全て始めもわからない深い貪り、怒り、愚かさ(三毒)によります。それは、身体の行い、口の行い、心の行い(三業)から生まれ起きたものです。全てを、私は今、仏様に照らされて悔い改めます。
釈迦の教えは、苦しみから解放され幸せになることです。その苦しみの原因は自己中心的な欲望です。己が今日までに造ったあらゆる罪の報いの恐ろしさを痛感し心から悔い改めることが大切です。
貪(とん)「貪り」
淫欲、財欲、食欲、名誉欲等
瞋(じん)「怒り」
自分を見失い怒りにまかせた状態
痴(ち)「愚かさ」
(貪、瞋、痴)の三毒
心が欲望におかされ道理のない状態は、己の身と口と心から生じたものである。
もちろん、懺悔したからといって全て帳消しになる訳ではない。益々煩悩の深さを知り、心から懺悔し、決して悪業の報いを忘れないことである。 その苦しみから離れるにはあらゆる善行に施すのです。その善行が心より己の喜びとなったとき、そこで初めて懺悔の功徳が現れてくるのではないでしょうか。
懺悔は自分の心と行動でするものです。場所でするものではありません!
如何なる時にも戒めの心をもって口に出さずとも心で「懺悔文」をお唱えし意味を心に繋ぐ習慣を付けましょう。
質問者からのお礼
ありがとうございました。これからは、世のため人のために一生懸命生きていきます。