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生きるのが辛いです

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生きるのが辛く、毎日死にたいと考えてしまいます。
小さい時から、父に精神的虐待を受けていました。
父は思い通りにならないと、急に怒鳴り物にあたり、ガラスを割ったりして、小さい時からかなり怖い思いをしてきました。
母も暴れる父を何もできず、父の怒りがおさまるのを待ち、割れたガラスなどを片付けるだけでした。
酒を飲むのもひどく、病気になって半身麻痺になっても、酒をやめず、暴れます。

結婚して子供が生まれて幸せでしたが、子供が障害と言われ、しかも事故で亡くなってしまいました。
子供が障害と言われてから、夫婦で悩みぶつかり合いも多く、主人も言葉の暴力がひどく辛いです。
主人と父が重なって見えて、とても怖いです。

もっと大変な人がいるのも分かっていても、周りと自分を比べてしまい落ち込んで辛いです。

なぜ子供の頃から辛い思いばかりなのでしょうか、小さい時から怒鳴られるなら産まないで欲しかった、産まれてきたことが間違いだったと考えてしまいます。
生きていても仕方ない、早く死にたいという考えが頭から離れず、辛いです。
助けてください。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

誰かのせいにしない 喪失感と被害者意識を断つ

わたしは昔とても卑屈な少年でした。今も?
ある時、ネチネチ苦しんでいた時に自覚したのですが、一番自分を苦しめていた人間は相手でも、過去の壮絶な不幸体験でもなく、それをリピートして、被害者ぶってる自分だったと気づいたのです。
人間苦しい時って心の中に「喪失感」が沸いているのです。
「損失感」と言ってもいいでしょう。
損なわれ、損した気持ちです。
この喪失感をあなた自身が心の中で選択し続けることで物事を解決されようと思っているのです。
土を掘るのに丸いボールを手に取って掘ろうとしても掘れません。
間違ったことを選択すれば正しい方へ進めないのは当然です。
心はいつでも選択する。
2秒に1回くらい選択しています。
そこに居続けるか、それをやめるか。それも選択です。
無自覚ながら、あなたは悩み続けることを選択し続けてしまっているのかもしれません。
自分を責めることでお子さんへの償いをしようとしているのかもしれません。
ですが、失礼ながらあなたのお子さんがそこに居らっしゃったら、もういい加減にしてほしいと思うと思います。
あなたのお子さんがもし生きておられたらこう言っているのではないでしょうか。
もういい加減、自分のせいでママが苦しむのはやめにして欲しい。
あなたは「あなたのせいにしていない」というでしょうが、
子どもにとっては、母親が悩むことは自分が死んでしまったからこそ悩んでいると思うものです。生きていたならば悩まなかった訳ですから。
ママは悩むことで何か私の為に尽くしてしてくれているつもりなのかもしれないけど、そんなにいつまでも悩まれたら私も下の子もつらいよ、と言っているような気がしませんか?
もしそうだとしたら、それでもあなたはあなたが悩み続けることを優先されますか?お子さんがお母さんに立ち直ってほしいと思っているのに、子供の願いを聞き留めず、自分を優先されるべきでしょうか。
人間が人間を苦しめるのは「喪失感」「被害者意識」という、感情をずっと選択し続けるという負の連鎖に陥ることです。
あなたはそのお子さんを「逝かせて」あげていないのです。
もう、そろそろその子を安らかな世界に送ってあげてください。
そして下の子に沢山の愛情を注いであげてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

あなたはあまたのものごとから守られています

拝読させて頂きました。あなたの今までの大変辛い思いを読ませて頂きました。あなたの思いを受けとめさせて頂きたいと存じます。
そうですねお父様やご主人様のその様な仕打ち大変お辛いですね。そしてあなたの心は心底傷つけられていらっしゃるですよね。なぜその様な理不尽な思いをしなけれなならないのか、なぜその人たちは人に対して暴力や暴言を与えるのか本当に不条理に思います。
決して人に対してその様な行いをしていいわけはありません。その方々は自分の気持ちをぶつけて相手の方を傷つけているのですからその行為は罪であり悪です。その人たちは自分が辛いため感情に任せてひとやものにあたっています。がしかしそれは許されることではありません。
愚かなのです。その愚かな行いや心によってその報いを受けることとなります。そして決して本当に安心して幸せになることはできないです。己が犯した罪を心から反省し懺悔し償わない限りは真の安心は得られないからです。
できればそのことを落ちついてお伝えなさって頂きたいと思いますが、あなたに危害が加わるようでしたらお控えなさって頂いた方がよいですね。
あなたの生命は様々なものごとひとによって与えられて育まれているんです。そのことはぞうど心におととめなさってくださいね。そしてこれからの人生はどうぞ素直な心で前向きにお過ごしなさってください。きっとあなたのこれからの人生は穏やかにお健やかな日々となります。私はその様に仏様やあなたのご先祖様にお祈りさせて頂きます。あなたはあまたのものごとに守られて育まれています。どうぞ明日からのご生活から少しずつ歩みだしてくださいね。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

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