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結婚が幸せに思えず、結婚願望がありません。

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もう30代ですが、結婚願望がわきません。
好きな人に「結婚を視野に入れて付き合って欲しい」と言われました。
嬉しい告白だったのですが、「結婚」という言葉に戸惑ってしまいました。
母の影響だと思います。
母はいつも疲れていました。
子育てに疲れ、仕事に疲れ、姑に泣かされ…。
母がいつも嬉しそうに懐かしそうに話すのは、独身時代の思い出です。
仕事に打ち込み、自由を謳歌し…。
私は母のようになりたいと思えません。
結婚に幸せなイメージを持てないのです。
母も一生独身だったほうが、幸せだったのではと、思ってしまいます。
こんな気持ちのまま、彼と交際できるでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お母様にも幸せな時間があったでしょう

あやさん

それは、お母様の話です。あなたのことではありません。
お母様はお姑さんもいられたし、結婚前の自由な生活が手放せなかったのでしょう。しかし、そんなお母様でも笑顔で入られた時間もあったと思います。とくに、お子さんが生まれた時や成長が見られたときはうれしかっただろうとおもいます。

結婚は子育ての中の楽しさもあるし、何より夫婦が仲良ければ、笑顔もたくさん見られるでしょう。

あやさんはこれからお付き合いしていくなかで、そのお相手と将来、共に協力しあいながらやっていけるか見ていくのでしょう。本当にこの人なら大丈夫と思えたら、結婚したらいいじゃないですか。

要するに真剣にお付き合いしてほしいということですよね(^_^)

もう一度言います。お母様とあなたは違う人間です。あなたにはあなたの人生があるのです。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

結婚=幸せではない

埼玉県にはこんな伝説、言い伝えがあります。
我々日本人はある洗脳団体のせいで結婚イコール幸せである、と思い込まされているという都市伝説があります。(埼玉、都市じゃない。)
その洗脳団体は人々を結婚=幸せであると思い込ませることによってブライダル産業業界に莫大な経済効果をもたらせているという事なのです。
その洗脳団体とは何か。
月9です。
真実か信じないはあなた次第。

冗談はさておき、恋愛でハッピーエンドで結婚して終わるのは月9のドラマだけではありません。
実際私の📞お悩み相談には結婚で地獄になっている人たちからのご相談もあります。
実際にコリン星(離婚の意)に旅立ってしまった方も多いです。
小倉優子ことゆうこりんも旦那の浮気でリアルに、こりん星(離婚の意)に旅立ってしまうかもしれません。
結婚そのものに幸せはありません。
幸せになるには、自分の幸せセンサーと笑いセンサーと大らかさセンサー、ポジティブセンサー、悟りセンサーを磨けばよいのです。
総じて、自分の自我や我見を捨て去ることです。
自分があると流れに逆らうようなことをするから苦しい。
自分を捨てると流れに身を任せることができる。
自分があるとは、願望、理想、偏見、思想、思い込み、既成概念などもそうです。
坐禅をして自己を忘ずると、それらもケロリンになります。
自分を大事にしたければ結婚しないでください。
自分の中の自我意識をケロリンしてみようと思えば誰と結婚してもそこそこうまくいくものです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。
お礼が遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。

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