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同じことを繰り返してしまう自分が嫌です。

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有り難し有り難し 18

わたしは同じことを繰り返してしまいパートナーを困らせてしまいます。
自己防衛のために嘘をついたり、相手を思いやらず自分の感情重視で傷つけるようなことを言ったり、自分のことしか考えなかったりでダメダメです。
旦那さんは筋を通す人間で冷静沈着で苦労あってか的確に正論を通します。

わたしはそれを受け止めなければ成長しないのはわかるのですが、言い訳したり、頑固で非を認めようとしません。自分が否定された気分になるしプライドを傷つけられるのが嫌で仕方ありません。

相手が厳しく言うのは優しさだと喧嘩のたびに後から気づくのですがまた繰り返してしまいます。

どうしたら繰り返さず改善できるのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ミッション【無私ビジョンを体得せよ!!】

結論:「我が事を先とせざれ」を座右の銘にしましょう。
自分の事や、自分が尾も起こすことを優先させないモードで人と対話すればよいだけです。
自分を損ねられるのは誰でもイヤなものです。それはイヤですよね。
ですが、本当に自分をいじめてくる人間かどうかの見極めは大切ですよ。(・ω・)
相手が悪意であれば確実に嫌がらせです。
相手が善意なくとも悪意が無ければただの忠告。ただ思った事を言ってるだけだけ、愛でもあるのです。それだけなのです。
そこで色つけて無駄に傷つくのはやめましょう。
あなたは人から何か言われると、事あるごとに瞬時の内に「自分を傷つけてきた」とか「自分を下げてくる」などと「自分の考えたことが真実であると優先させているカモ?
ご安心ください。これもあなたを責めているんじゃなく、まず練習です。
私の言葉をまず、怒られているんじゃなくて、ああ、否定されているわけでもないんだ、と受け入れることで心が傷つかなくなれるのです。
「黙って聞き届ける」スキルを身につけましょう。
何か言われると瞬時に自己防衛、瞬時に自分最優先、瞬時に自我バリアを張ってしまう。これは防衛反応の一種でもあります。
だからみんな瞑想や坐禅で無我を目指すのです。
誰もがそういう性質があり、人によってはそれが強すぎるというだけのこと。
うちの母は私に対して自分ルールが強いです。
反対に父は禅の修行によって仏になって自分の押しつけが無く、あまりとやかく言いませんので無毒です。怒鳴ることもよくありますが、あとくされが無いので気楽です。一緒に過ごしていても残り物がありません。
私の尊敬する禅の師、井上貫道老師もお若い頃、その父(井上義衍老師)と「一緒にいてとても過ごしやすかった。」と仰っておられました。
へー、いいなぁ。私もそんな父になりたいと思い、息子に対してもとやかく言わないようにしています。
つまり、家族であってもサラッとした関係であればお互い傷つくことはなく、他人さまでも家族でも【私的な自我ルール】がそこに介在しているとお互い苦しいのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございました。
言われても否定されてるわけではないっていうのを練習してみます。
無私ビジョンを体得するのをやってみます。
瞑想習得したいですね。

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