死後の世界・霊とは何なのか
私は小学生の頃、大阪のUSJ近くのホテルで恐らく心霊体験をしました。
それ以来、私は今でも霊の存在を信じているのですが私個人としては、どちらも科学で証明できると考えています。
よく霊や死後の世界は非科学的と世間でも科学の世界でも言われていますが、その多くはしっかりと調べもしないで根拠も無いものばかりです。
そもそも非科学という言葉が非科学的ではないのかと私は思ってしまいます。
死後の世界や転生に関しては近年、量子物理学の学者が科学的に存在する可能性を真剣に研究しています。
私は霊や死後の世界などが今まで立証できなかったのは科学が未熟だったからではないかと考えているのです。
ですので、将来、立証できる日が来るのではないかと私的には思います。
そこで質問です。
お坊さんは、霊や死後の世界をどの様な存在だとお考えなのでしょうか?
また、もし、今後この分野に科学のメスが入る場合、お坊さんとしては、どの様に思われますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
根拠のないことには騙されないのが仏教的明晰性
いずれにせよ、今の時点で誰も立証できていないことは妄信しないことです。
あなたも冒頭で「おそらく」と言っておられる。
脳の力は思い込んだものを実体化させる力もあり、人追いかけられたり、掴まれたと思い込むと本当に背中などにひっかき傷が生まれたり、掴まれたアトができるそうです。
「実際に無いものをあると思い込む」これは自分の中だけの脳内大権です。
そう思い込み「たい」ということ自体がすでに妄想的で我欲的見解といえます。
無いものを信じる、信じ「たい」という無理に信じ込もうと熱意を燃やして感情的になるこ自体が明晰な思考状態でなくなります。
ですから、私は科学的にも立証されるまでは信じません。
では、あの世やら死後の世界はないのか。
仏教では宗派や個人によって「ある」だの「ない」だの言っているだけで、仏教として「ある」「ない」ということを誰かが代表で言っている訳ではないもんです。( ˘ω˘)
だから、今から言うことがとても大事ですが。
故に悟った禅僧はこう言ってます。
あの世とは一秒前、一秒後。
過去世とは記憶のこと。
来世とは推測のこと。
死後の世界とは、その個人が死んだ後にも続いている我々が体験している、永遠に続いているこの地球上のこと。
人間は今しか生きとらんのでしょう。
それ以外の一秒前、一秒後のすべては皆「今現在の思考」でしかない、ということが道理としてお分かりになられるでしょうか。
死後の世界があっても私は平気で生きています。
死後の世界が無くても私は平気で生きています。
死後の世界やあの世とやらがあっても無くても今日、いま、ここという、地球上を、沢山の偉人たちが亡くなっていかれた『先人たちの死後の(この)世界』を、思考というファンタジーワールドに旅立たぬように血に足つけて生きています。
☆死後の世界、あの世、という言葉の明確な定義が個人によってきちんと明確になっていないことが問題なのです。
多くの人が「運命 あの世 死後の世界」などと聞くと、そこから本人たちが勝手に物語を作り始めてしまうという人間の性質をよーく自分のことも含めてみてください。
もう一度申し上げます。
人間とは、どこで読んだか見たか聞いたか、そういう言葉や人言葉に騙されて、立証もできない不確かな事を曲解して「そうにちがいない」と思い込んでしまう迷いの思いがあるのです。
「霊」も「死後」もあります。
こんにちは。拝見いたしました。
「霊」や「死後の世界」をどのように仏教は考えているのだろうか、ということですね。お坊さんである私としては、仏教に興味と言いますか、関心を持っていただけたことが嬉しいです。そして、そう思ったということは「仏縁」があるということでもあります。それは、アルファ・ケンタウリさんは仏様と出会う御縁があるということです。
お釈迦様がお悟りになられた内容は「私たちが何のために生まれ、死んだらどうなるのか」ということを明確にされたことにあります。仏教の世界では、基本的に「死んだら終わり」ではありません。「死んでも終わらない」のが「苦しみ」なのです。今生に行った行為の報い(自業自得)を受けて次の世に生まれ変わります。それは人間であるとは限りません。だからこそこうして人間として生まれてきたこと、お釈迦様の言葉を聞くことができる境涯に生まれてきたことはとても「尊い」ことであると考えます。永遠に続く生まれ変わりの世界、しかし苦しみから逃れることはありません。だからこそお釈迦様は「もう二度と生まれ変わらなくてすむ」方法を悟られたのです。死んで終わりなら修行も悟りも仏様も必要ない事です。「霊のようなもの」(一般に語られるような霊がすべてそうだとも言えませんが)もあります。死後もあります。私はそれがありありと見えるわけではありませんが、お釈迦様のお言葉、悟られた方々のお言葉を信じております。
科学をどうとらえるかということで意見は変わってくると思いますが、科学ではまだ立証されていないことはたくさんあると思います。お釈迦様に限らず、過去の偉人達は現代になってようやくわかるような事もすでに知っておられました。科学と宗教を対立構造に起きたい大人の事は置いておき、純粋なあなたの疑問や興味を大事にしていただけたらと思います。
合掌
考えないという智慧
科学を持ち出すのであれば、科学的手法による検証で結論が出ていないことに対して結論を急ぐことが非科学的です。否定するか肯定するかの問題ではありません。
量子力学で研究が進んでいる…面白い話を教えてくださいましたね。これは興味があります。でも、研究中はあくまで研究中であり、結論は出ていないのですよ。分からないものは分からない。それを我慢できずに結論を出してしまうのは、分からないことによる心理的なストレスに負けているだけです。
認知に関する分野からはこのような研究成果が出ています。
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52151355.html
でも、俺が霊を証明してやるぜ!と言うならその意気や良しです。1つの研究・1人の学者を神聖視して疑わないのは非科学です。それは量子力学にも言えることですが、だからこそ大いに頑張ってください。
さて、お釈迦さまは霊についてどう言ったか?
「毒矢のたとえ」という逸話の中で、死後のことや世界の果て等が気になって仕方がなかったお弟子さんに対して、「議論しても結論の出ないことを考えていないで修行しなさい!」と一喝されました。お釈迦さまは有るとも無いとも言及せず、「それを考えても心の平穏にとって邪魔になるだけですよ」とおっしゃったわけです。そのためこの教えは「無記」と呼ばれます。
一方で来世に全く言及していないわけではありません。
「誠実に生きなさい。さすれば来世で楽になるでしょう」という経典の記述は枚挙に暇がありません。ただ、この手の教えは決まって王侯貴族や庶民、つまり非出家者に対しての言葉です。この言葉のメッセージ性はどこにあるのでしょうか?来世利益でしょうか?それとも誠実に生きなさいという部分でしょうか?どう注目するかによってお坊さんの意見も割れるわけですね。
私個人としては、お釈迦さまも出家者なのですから一般人向けの教えよりも出家した弟子への教えの方がお釈迦さま自身の本音に近いだろうと考えます。だから一般人向けについても誠実に生きなさいが主メッセージだろうと信じています。(cf,対機説法、バラモン教)
より深い話をすると仏教の説く来世は「諸法無我」を前提に読まないといけません。もう字数がありませんが、丹下師が書いていらっしゃる教えのことです。
おっしゃる通りと考えます
おはようございます。
霊や死後の世界については、お釈迦さまは明確に示していません。仏教の大切な所はそこじゃないからです。「死んだらどうなるか」ではなく、「いかに生きるか」が仏教だからです。
また、霊や死後の世界と科学については、あなたのおっしゃる通りだと思います。科学の進歩を待ちます。
霊や死後の世界が科学的に証明されても、私の思想の立場はかわりません。最初に書いた通り、「死んだらどうなるか」ではなく「いかに生きるか」が仏教のテーマだからです。
質問者からのお礼
皆様、こんな私の質問にご回答ありがとうございます。
皆様のご回答は大変、興味深く読ませていただきました。
私は将来、この分野を個人的に研究してみようと思っていたので参考になりました。
ありがとうございました。