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自動車学校

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有り難し有り難し 25

私は、昨日から自動車学校に通っています。
さっそく一日目に乗ってみたのですが、カーブを上手く回れず、道幅が余りすぎと激怒されてしまいました。
運転は慣れとよく言われますが、怖くてそういう気持ちになれません。
今日も運転があると思うと憂鬱になり、多額のお金を工面してくれた親に申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまします。
どうすれば解決するでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

1日目からうまく乗れたら自動車学校はいりません

 自動車学校の実技でうまく運転できなかったのですね。
 私も免許の実技では苦労しました。「目が近い」と言われました。歩くときは足下を見て歩きますが、車はもっと遠くを見た方がハンドルを正しく操作できますよ。

 1日目からうまく乗れたら自動車学校はいりません(笑)これからいっぱい練習して、上手になっていってください。

 ご存じの通り、自動車はあなたの命を乗せて走る鉄の塊です。事故は時にあなたの命に関わります。あなたばかりではありません。家族を乗せれば家族の命をあなたのハンドルが預かります。あなたの運転次第で周囲の歩行者などの命にも関わる可能性もあります。教習所の先生も、将来あなたやあなたの家族、そして一般の方々が交通事故で死んでしまわないように一生懸命です。ですから、教官も指導に熱が入ります。怒られてもそれはあなたに対する愛情と思うようにしましょう。

 確かに「運転は慣れ」ともいいます。回数を重ねれば上達します。一方で「慣れ」は危険です。常に注意をして運転するようにしましょう。

 楽しくドライブできる日が楽しみですね。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

失敗は失敗を責めるのではなく、失敗で学ぶべきもの。

こんにちは。夏休みに山形の自動車学校の合宿で講習中、縦列駐車の時に教官の言う通りにやらなくて教官をキレさせて授業を受けさせてくれないという「お預けの刑」を喰らったシッパイダーマン丹下です。
失敗は学びです。
失敗はそこで学びを得るための機会です。
失いに焦点を合わせてもダメです。
得るものが大いにあります。
失敗が無ければ次回に生かされるものがありません。
話もバイクの免許を取りたての時、カーブで曲がり切れずにズシャー!と大きくコケました。
「死ぬかと…思いました。(海老蔵風)」
そこでも私は大いに学びました。
「ああ、痛い、痛い。チョー痛い。ううっ、ヒザと、手からッ、血が出てる。(ジョジョ風)そうか。スピードが速すぎると、カーブって曲がれないのか。勉強になったぜ…!」←教習所で学ばなかったんかい。
どんな失敗も次に生かす教訓に致しましょう。(流血)
へー、自動車教習って、試験をパスするためのものではなく、実際の道路で事故を起こさないために講習を受けるべきものだったんだね。(出血多量)学びになったよ。👼
そこが実際の道路じゃなくて良かったですね。教習所内ではいくらでも失敗できますから、失敗から学びましょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

解答ありがとうございます。今日の教習で少し運転のコツをつかめた気がします。毎日練習して、運転が楽しくれたらとおもいます。本当にありがとうございました。

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