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オリンピックを観て「うらやましい」

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こんにちは。

今、毎日のようにオリンピックを観戦しています。もちろん見ていて応援はしますし、感動も大いにします。

しかし、私はなんでも「自分ができないと意味がない」「自分もあのようになりたい」と強く思って止みません。特に勝って心の底から拳を挙げて喜べること、負けても本気の涙を流せること。どうしようもないほどうらやましくなってしまいます。

体操なんて自分はできるはずないのに、「あーあ、一回だけしかない自分の人生であの人はこんなに輝いて生きてるのに私は体験できないんだ。できずに人生を終えるんだ。。。」と思います。とてもうらやましくて、悲しくなります。他人と比べなくていいんだよ、としょっちゅう言われますが、難しすぎるアドバイスです。。。

自分は怠け者で、三日坊主で、コミュニケーション能力も劣ってて、緊張しいで、、、オリンピック選手と対照的で自己嫌悪にもなってきます。

どうすればいいんでしょう。。。苦しいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

これをきっかけにコミュニケーション能力を見つめ直す

そもそもオリンピックどうこうよりも、そこにテレビがあって映像が流れていて、そこにあなたが気持ちを注ぎ込んで感情を盛り込んだ。
そして、そこで自分がみじめな気持ちがしたり、このままじゃいけないとか、問題が生じた。
そこから見直しましょう。
人の事は人の事です。
私も今目の前にTVがありますが、外国人で私より太っちょさんが映っています。
「おいおい、太り過ぎだ。痩せた方がいいよ。」
などと、全然知りもしない外国人さんにそんな事を言ってもその人は聞こえませんし、私はTVを前にひとりごとを言っているオッサンです。それを観た人たちは「かわいそうに、お盆のお詣りで熱中症で頭がおかしくなったんだわ」と思うでしょう。
コミュニケーションて生身の人間とやるだけではないのです。
多くの人はモノや他人様、自分のスクリーンに映った相手を相手にしているだけであって、本当のコミュニケーションになる前に、ひとりずもうしている場合があるでごわす、どすこい。
何故なら相手のいない所で自分のスクリーンに映ったものを相手にしているからでごわす。
たとえばイケメン、芸能人、有名人がそこにいて話をしているつもりでも引っ込み思案になっているという事は、リアルの相手ではなく自分のスクリーンに映った虚像を相手にしているだけなのです。
ここを今日一日の課題にしてみましょう。
自分の中のその人を相手にしてしまっていませんか?
私は現在、桜がサイタよ埼玉県にいます。
あなたは父さんフンドシ長野県にいます。
これだってコミュニケーションと言えばコミュニケーションですが、実物はあなたの目の前にいません。私の目の前にもいません。
ちゃんと実物を相手にしましょう。
それではカーテンを開けてください。そこに実物の私がいます。
さぁ、真実のコミュニケーションをしましょう。
ウソです。(ストーカーかい)
カーテンの外に誰かいるのではないか?
…と思って自分のスクリーンに誰かが現われる。
それは現実、実物ではなく、あなたの中だけのまぼろしなのです。
これを相手にせずに、ちゃんと本物だけ相手にする。
そうすれば自己嫌悪も無くなりコミュニケーションが上手になります。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丁寧な回答ありがとうございます。
実在する人間もスクリーンに映れば虚像、というような考え方はしたことがありませんでした。新しい見方でした。そうですね。まずは実物を相手にすることを重視しなければいけないですよね。テレビテレビ。。。という環境である私ですが、よくよく注意して考え直さねばと思います。

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