hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

友人がいない

回答数回答 2
有り難し有り難し 26

子供の頃からコミュニケーションが苦手で
一人ぼっちがよく有ったと思います。
でも仲良くなると、一生懸命に合わせようとしてしまいます。

社会人になって仕事はきちんとこなせても、人との関わりに疲れてしまい何度か転職をして来ました。いじめられるとかでは
無くて、私が疑心暗鬼になってしまう感じです。

仲が良い友人が一人いますが、何でも話し過ぎて私が傷ついてるのに、友人に自分からメールをしておいて、返信が無いと不安感でいっぱいになります。

こんな気持ちになるなら、自分から距離を
とれれば気持ちが楽になるのですが…。
友人がいなくなる事がこわいです。
こんな年齢になっても、子供みたいな事を言っている自分が情けないです。

友人との関わりはどうしたらもっと楽になれますか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

友達もあなたも、掛け替えのない存在です

はじめまして。亀山純史と申します。私も「ひとりでいたいなあ。」と思うときが、結構あります。そして人と話をするのも、時として結構疲れたりもします。『無量寿経』という教典には、「私たちは、この欲望に満ちた世界に、独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去る存在である」と説かれています。私は一人では生きては行けない存在でありながらも、その本質は、私は誰にも取って代わることが出来ない、掛け替えのない存在であるということです。どうか、そのような「この世に一人しかいない自分」を大切になさってください。そして、あなたがこの世に一人しかいない存在ならば、あなたの友達も、この世に一人しかいない存在だということです。ですから、自分を大切にするように、友達も大切にして下さい。

{{count}}
有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

この心身は本当は誰とでも親しくなれる

自分と良い関係で❝あること❞❝あるひと❞❝あるもの❞。
それが「友達」の真意・真相であろうと思います。
生身の人間でなくても良いのです。
生身の人間でなくとも❝友達性❞とでもいうべき暖かさを感じ取れる力をこれを契機に自分の内側から見つけ出してください。
どんなに孤独になったって自分と最後まで関われる存在はあり続けます。
寂しい少女がお人形さんやぬいぐるみと話していてもそれは、相手に命を見出して、ちゃんと関わっている姿でもあります。
「私は万人の友である」
この言葉は、人間がワタクシという壁の厚さを薄くして誰とでも関われる境涯になった方の言葉です。
こちら側が、どんな相手であっても、よく、より良く、上手に関わろうとする「自分側の・こちら側の」心こそが、最も大切です。
たとえ家から外に出ない人であっても❝良く関われる❞人・相手・環境・ものがあるはずです。
あえて生身の人間だけではなく、今自分が、良い関係で関われている❝もの❞❝環境❞にも目を向けてください。
「私は万人・万物の友となり得る可能性を秘めている」
・親しめるもの
・けっして貸し借りや損得も生まれないもの
・隔て無く関われること
があるはずです。
それをまず、外の存在として探すのも良いですが、あなた自身にそういう働きがある事を知ってください。
「この心身は一切を隔てなく、受け入れると受け入れざるとにかかわらず、透過させる力をいつでもそなえている」

ひょっとしたら、友達となれるはずの存在との距離を作っているのは私たちかもしれません。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます

この広い世の中から巡り会えた友人なんだから、距離をおくなんて考えず
私と関わってくれた事に感謝します。

一人しかいない存在 当たり前の事
ですが、深く思うと人を憎んだり、
裏切ったり殺人をしたり は出来ない筈ですよね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ