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死ぬとどうなるのか

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表題の「死ぬとどうなるのか」わかった気がしてしまいます。

死んで戻ってきた人はいないのでどうなるのかわかりません。

というのが一般的な説だと思います。
しかし私は前年事故により脳に損傷をうけ、1日ごとに記憶がなくなり、さらには事故直後には赤ちゃんのようになり、1週間かけて今の年齢まで戻って行ったと聞きました。
もちろん覚えていません。
周りから聞いた話です。

この、覚えていないこと。
思い出さない。覚えない。何も無い。状態が死だと思ってしまいました。

だって科学的には死んだら脳が動かない。ということですよね。

いままでも知識や常識としては、そうである。ということを知っていましたが、今回の事故で実感を持ってそうなんだ!と信じるようになってしまいました。

何もなくなるということは底知れない闇の中に放り投げられるようで恐ろしいです。仏教のいうように、輪廻転生を信じられたらよいのに。と思います。

家族や友人には死んで無いからわかったことにはならないじゃん。

といわれます。
でも私は答えが欲しいです。
もしくは宗教を信じられたらよいのに。

と思います。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それは多分死ではありません

 こんばんは。
 酔っ払った時の記憶が飛んでしまう人の話をよく聞きますよね。覚えてない。でもこれは死ではありません。
 私は全身麻酔で親知らずを抜きました。ガリガリやられたはずなのに、何の記憶もありません。でもこれも死ではありません。
 あなたの経験も、多分死ではありません。一時的な機能の停止といったところでしょう。

 お盆の時期だからかなぁ?最近、輪廻の質問が多いですねぇ。お釈迦様は、「死んだらどうなるか」について明確な答えを出していません。死んで帰ってきた人はいないのです。わからない事をいくら考えても無駄だからです。輪廻の思想は、仏教発生以前から古代インドにあった思想なので仏教ではありません。(輪廻については過去に様々な質問とそれに対する回答があるので、是非探して読んでください。)
 また仏教では死後の世界が「ある」とも「ない」とも言っていません。科学的にも、まだ有ることも無いことも証明されていません。

 ですので、死んだらどうなるかなんて、考えるだけ無駄です。それよりも、ここにいるあなたが、今、どう生きるか、そっちを一生懸命考えた方が良いと思いますよ。

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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

それは死に対する「あなたの独自の思い」におびえている姿

今思いこんでおられる事をよく客観的に眺めてみてください。
あなたはあなたの体験したことに対してコメント、評価、取り扱いをしている、という図式が分かりますか?
「死」ということがそこにある。
その体験を現にしてはいない。
していたら、ここで回答できない。
その漠然とした「死」に対するイメージを生きているあなたが想像した。
その想像された脳内の「死に対するイメージ」にあなたは後追いで、ああ、こんな状態になるならイヤだ、と憂いの思いを帯びているわけです。
ところが、私が申し上げている所のもっと大きな死という様子は、何の力も要らないのです。
多くの人が閲覧注意画像で心にダメージを受ける心理構造はその閲覧注意な画像に対して、無自覚ながらに自分自身の思い入れを生じさせるからです。
DVDレンタルのホラー映画のジャケットがいくらおぞましいジャケットだからと言ってさほど傷つく人はいません。
死も同様です。
あなたは「死」を恐れているのではない。
「死に対して二次的に生じた自己イメージ」に恐怖しているのです。
そこから抜け出したければ当山で坐禅して、講話をお聴き頂き、自己の真相に目覚めてください。
当山もサイタマンです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

光輝様
ご回答いただきありがとうございました。
"死んだらどうなるか、考えても無駄"
頭の中ではわかっていたはずなのに、改めて誰かに指摘されると、その通りだ。と思うことができます。
そういえば、私は来週の引っ越しの準備も終わっていないし、人間関係だってまだまだ未熟です。
死について考えるより、やることは沢山ありそうです。
ありがとうございました!

丹下様
ご回答いただきありがとうございました。
仏教の教えに対して知識のない浅はかなわたしの回答に対してとても丁寧に答えていただきありがとうございます。
こんなわたしでも、自分の考えたとこ、なぜ怖がるのか。が少しみえました。
でもまだまだ難しく感じることもあります。
このサイトで回答していただき、お寺に行って座禅を行うこと、講話を聞くことに対してとても興味が出てきました。
感じたこととしては仏教の教えは、信じること
というよりも学ぶこと。にあるような気がしました。ですのでお寺に実際に行って学ぶことに興味をもちました。
私は質問の中で、"宗教を信じられたら良いのに。"と軽く書いていました。
しかし、お二方の回答を読み、"信じられたら良いのに"と書いたことを恥ずかしく思います。
仏教とは"信じさせる"事ではないと感じました。
いま、私はお寺に実際に行って"学びたい"と考えています。

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