死んだ猫の供養について仏教の考え方は違う?
ウチの家は西本願寺系なので、ペットの供養を頼みにそこそこ有名な寺に行きました。
するとどうでしょう、御坊が言うには「あなたの気持ちはわからないこともないですが、そもそも宗教というものは、人の幸せを願ってできたもの。ゆえに人の供養、御先祖様の供養はしても、動物は言葉も発せず、理解もできず、ただただ人が擬人化したものにすぎません。人は人、動物は動物とお考えて下さい。ゆえにその動物のための法要はしません。」と・・・
以前猫の死んでここで相談した時、「必ずやそのこは仏様のもとにて心安らかに成仏なさいます。そしてこらからもあなたをお見守りなさってくださいます。
いずれあなたの生命が全うされた時にはあなたは仏様のもとにてそのこに必ず巡り会います。そして以前のように親しくなさることでしょう。 」と書かれておられ私も喜んで頼みに行ったのですが・・・
その時は口では言いませんでしたが、「御坊だって、木や金属でできた像を拝んでるじゃないか!思いが大切なんだよ、思いが!オマエさんにはガッカリした!」と思って帰りました。
ウチが火葬を頼んだ東本願寺系は予約をすれば猫の法要しますと書いてあるのですが、動物に対する供養は、同じ仏教の浄土系のお寺、お坊さんでも考え方は違うのですか?
死んだら分からない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ペットは家族の一員です。
擬人化とは何でしょうね?
魂がないと言うことをでしょうか?
物体ということになりますよね。
私も理解できません。
うちも、浄土真宗ですが、
ペットの火葬、供養、納骨、
埋葬まで、真心を込めてさせていただいています。
ペットは家族の一員です。
生活を共にしています。
知らない他人よりも、
はるかに親しい存在です。
うちには、ワンチャンが2頭います。
チワワの兄貴とトイプードルの弟です。
言葉は話せませんが、
ある程度、わかっています。
嬉しい、楽しいを、全身で表現します。
モノなんかじゃ絶対にありません。
毎日一緒に生活して、
一緒に寝ています。
六道輪廻と言いますが、6つの境界のうち、唯一、人間界と畜生界は、
物質的にたったいま、
この世界で同じ時間を共有しています。
袖すり合うも他生の縁、
という言葉がありますが、
浅からざるご縁をいただいて、
そのペットと共に生きているわけです。
当然、往生したら供養したい、
あの子のために祈りたいという、
あなた様のご心情痛いほどわかります。
祈ってあげてください。
私自身がお粗末で救いようのない、
人間ですし、人の考え方を、
批評をする立場でもありません。
御開山さまの親鸞さまは、
法然さまの教えを、
選び取られたんです。
法然さまも、
お念仏を選び取られたんです。
宗教には教義という理解する部分と、
信心という、とにもかくにも信じきる。祈る部分があります。
車の両輪に例えられる方がいますが、
赤子が乳を欲しがるように、
阿弥陀さまを信じ、祈る、
救いを求める。
そこには何の区別もないと、
思っています。
あなたさまも、あなたさまにあった
ところを探し、お付き合いされたら、
いいのではないでしょうか。
どの宗派でも人によってかなり違います
病院のイメージを持っていただくと分かりやすいでしょう。同じ腫瘍を治すにも内科は薬で無効化しようとし、外科は切除しようとします。あるいは同じ内科であっても副作用の強い薬を比較的ためらわない先生もいれば、できるだけ負担の少ない薬を選ぶ先生もいるでしょう。そのようなスタンスの違いは僧侶の世界も同じです。また同じ内科でも所属する医学会の違いで方針の違いがあるように、同じ宗派でもさらに師弟の系統によって方針に癖があります。しかも純粋な師弟の系統ではなく、影響を受けた師弟ですから更にややこしいものがあります。それ故に本来、お寺版の主治医といえる菩提寺さんと気心の知れるお付き合いがあり、そちらでご相談なさるのが理想です。
また、正直なところhasunohaのお坊さんを基準に一般寺院を見ていただくと実情に合わない部分が多々出て参ります。僧侶の世界はまだまだインターネットの是非を問う時代を出ておらず、その中でこのような活動をしている我々はこの一点のみ取っても柔軟な性格の僧侶と言えます。
特にペット関連はグレーな部分が多く、葬儀・供養・読経のニュアンスの違いや、動物の立ち位置に関する歴史的変化など、専門的なことを言い出せばいくらでも議論できる所であります。その中で「この人に送って欲しい」と感じられるお坊さんと出会えますことをご祈念申し上げます。
悩み苦しみの原因である執着との向き合い方
仏教は、執着が悩み苦しみの原因だと考えます。
供養の儀式をしたほうが執着がなくなるなら、儀式をした方が良いのです。
一方で、初めから執着がなければ、始めから儀式は必要ないのかもしれません。
つまり、法事を断ったお寺の住職の考えは、「そんな執着を持つのは良くない」という「そもそも論」としては正しい考え方なのかもしれません。
一方で、法事をしてくれるお寺の考え方は、すでに執着がある飼い主なんだから、執着を減らすために儀式をするのも「あり」じゃないか、という考えかもしれません。
どちらでも、結果的に執着を軽減できれば正解なのです。
「正しさ」に執着して一方をけなし、断罪するのも、悩み苦しみを増やす執着の一種です。
ところで、浄土系宗派は、来世は極楽に往生できると説きます。
それだけ見たら、来世や死後のことばかり考えてる宗派だと思われるかもしれませんが、
実は、来世の心配がない教えなんだから、来世や死後のことを一番考えなくてよい宗派かもしれません。
ペット供養の話に、どこか通じる気がします。
質問者からのお礼
三人の御坊さんへ、わざわざ回答有難うございます。
【願誉浄史様】人も猫も命がある限りいずれは死ぬのでしょう。でも執着があると言うより、今はウチの猫がこの世にいようがあの世にいようが、ただ幸せになってほしい一念があるだけです。
【大慈様】
確かに病院に例えることもできます。ですがどんな療法であれ、どんな大学病院であれ、ヤブ医者がいると同様、今は「田舎で父親の供養した時は良いお坊さんに供養してもらった記憶があり、ゆえになにぶんあの伝統ある超有名寺院にして高僧しかいないのだと勝手に思いこんだのが私の間違いでした。ゴメンよ~~」と猫の写真に謝っている次第です。とりあえず先祖と両親の供養はしてもらったのですが、あの時は坊さんの念仏が音波か雑音にしか聞こえませんでしたが・・・。
【三浦康昭様】
私は宗教家でも宗教の本を読んだこともありません。ですが人は些細な動物の中にも心をくみ取ることができると思います。だからこそディズニーのミッキーマウスができ、渋谷の忠犬ハチ公を偲んだりするものだと思います。また、そこから何かを感じたり、思いを感じたり、何かを教えてくれたり果ては怒られたりもします。だからこそ、私は何十万もかかった治療代も苦にはなりません。そして今は冥福を祈り、この猫が生前私の自慢であったと同様、あの世の猫が同じ猫仲間に自慢できる飼い主になるよう生きたいものです。