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父親を亡くした夫

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つい先日、夫の父親(私からすると義父)が81歳で他界しました。
夫は独身時代から実家を離れており、夫の出身とは全く違う他県の私と結婚して、今も地元からは離れた場所で生活しています。
夫がずっと実家から離れて生活していたせいか、結婚後も普段の生活の中で夫実家の家族のことなど、あまり話題にはのぼりませんでしたし、帰省も年に2〜3回程度だったので、自分の実家や家族にあまり執着がない人なのかなと私自身勝手に思っていました。
けれど、そんなわけないですよね。
義父が他界してから、それまでの夫との生活では見たことのなかったような表情を感じるようになりました。
夫はお葬式の最中はバタバタしていて、悲しみに暮れる余裕もないとも思えましたが、出棺の際には顔を歪めて、今までの結婚生活では見たことのない悲しい表情を見せましたし、葬儀後は疲れもたまっているはずなのに、すぐに仕事に戻ってしまいました。
夫は、休んでいると多分悲しみでいっぱいになってしまう自分になりたくなくて、必死に忙しくしているように私には見えます。
私自身は両親とも健在なので、夫の気持ちを完全に理解するのは難しいと思いますし、理解しようなんておこがましいとも思っています。
けれど、妻として、できるだけ夫に寄り添い、支えたいという気持ちは強く持っています。
私は今後、どのように夫に接して行けばよろしいでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どうしたらいいのかと思いながら、聞き続ける

あしたばさん
“私自身は両親とも健在なので、夫の気持ちを完全に理解するのは難しいと思いますし、理解しようなんておこがましいとも思っています。
けれど、妻として、できるだけ夫に寄り添い、支えたいという気持ちは強く持っています。
私は今後、どのように夫に接して行けばよろしいでしょうか。“

ということですが

「自分は相手の気持ちを完全に理解することは難しい
ただ寄り添い、支えたい気持ちが強くある」

この気持ちを持ち接していくことが
独りよがりにならず、寄り添い支えることになるのではないかと思います。

ですので、あしたばさんは、旦那さんにこの気持ちを伝え
どのようにしたらいいのかと思いながら
長い時間をかけて旦那さんの気持ちを
聞き続けていったらいかがでしょうか?

あしたばさんの存在は既に支えになっているのではないかと思います。

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おきもち

父は死して子に宿る

STINGのソウルケージというアルバムを買ってさしあげてください。
すべてにおいて洗練された名曲名盤です。
世代的にも同じくらいかと。
この作品は、彼のお父さんが亡くなった時に作った作品です。
あらゆる人間で父親を介さずして生まれてこなかった人などいません。
およそ父親を強く意識する人であれば歌詞、楽曲、響かないものは無いのではないかと。
「WHY SHOULD I CRY FOR YOU」などは本当に素晴らしい歌詞、曲、そして父に対する赦し、自己解放が見事に表現された曲で、父を亡くされた方であれば涙なしには聞けません。
坊さんにお父さんを亡くされた方に歌詞と共に聞いてほしいと言われて買った、といって渡してみてください。ちゃんとそれがどういうものであるかを説明しながら。
誰もがいつかお父さんを亡くします。
偉大なる父親の精神的遺産はすでにご主人の中に宿っています。
それを感じられるようになれば、永遠にお父様を宿すことができます。
先に亡くなる事を示すことも父親の❝示し❞であるのです。
直接、こちらをご主人にご覧いただくのが良いかもしれません。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早速のお返事ありがとうございます。
葬儀からまだ間もなくで、あまり夫とゆっくり話も出来ていない状態なのですが、少しずつ気持ちを伝える努力を心がけたいと思います。

お礼が遅くなりましたが、ありがとうございます。
時間がたち、主人も少しずつ落ち着いてきたようです。
アルバムは主人の好みかも。うまく渡したいと思います。

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