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虐待される動物は、それが宿命なのでしょうか?

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最近も高校教論が子猫を生き埋めにした事件がありました。

世の中にはまだまだ遊び半分に酷い虐待に遭って殺される動物たちが沢山います。
犯人は悪びれもせず同じことを繰り返しています。
物言わぬ小さな命を弄びながら、肉や魚や植物の命を無駄に消費するのです。
そんな話を聞いてしまうたびに、可哀想で悲しくて心が狂おしく乱れます。
虐待される動物たちは、酷い目に遭うために生まれてきたのでしょうか?
仏教的には、彼らはそんな目に遭わされねばならない相応の業を持って生まれてきたということになるのでしょうか?
酷いことをする人間に出会ってしまうことは、動物たちの宿命だったのでしょうか?
だとしたら本当に悲しすぎます。
怖い苦しい想いをしたであろう動物たちの魂は、死後ちゃんと救われるのでしょうか?

せめて彼らの魂が仏様の元へ行って幸福になれるように祈っているのですが、どうしてもやりきれない想いがじくじくと心に膿みます。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大切なことは、その魂と私たちがどうかかわるかです

亀山純史と申します。
「虐待されることが宿命であった。」という考え方は仏教ではありません。もし、虐待されることが宿命であったならば、動物に限らず、親の虐待によって亡くなった子どもも、その子の宿命であったということになりますが、仏教ではそのようなことは申しません。仏教ではこのような出来事は「様々な因縁(直接的な原因と、間接的な原因)によって引き起こされた。」ということで、そこに宿命論も運命論もありません。
さて、そのような死に方をした動物たちの魂の行方についてですが、これも親の虐待によって亡くなった子どもたちの魂の行方で考えてみましょう。たぶんこの問いに対する答えは、宗派によって違ってくると思いますが、仏教の主眼は、亡くなられた子どもの魂の行方ではなく、その魂と私たちがどうかかわっていくか、ということです。つまり、亡くなられた子どもが主ではなく、今ここに生きている私たちが主になるのです。今ここに生きている私たちがどう生きていくことが、あの世に行った子どもにとっての供養になるのか、ということです。そこで、「死」は亡くなられた人[動物]が私たちに教えてくれる最後の説法とみてはどうでしょうか。「生は偶然、死は必然、死の縁は無量」という言葉があります。私たちの「いのち」は数々の偶然の中から生まれた「いのち」なのです。そして、死は必ず私たちには訪れるものであり、その訪れ方(原因)は、数限りないのです。たまたま、この世に生を受けても、様々な原因によって、ことごとく死んでいく無常なる私たち。そのことを故人は身をもって私たちに教えてくださっているのです。残酷な死に方をした子どもたち、あるいは動物たち。彼らもまた、自分たちの死をもって、私たちにこの世の無常を教えていると受け止めたい、と私は思っています。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...
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あなたの宿命

それが宿命である、ということで終わらせてはいけないことであろうと思います。
「虐待が起こっている、良からぬことである」ということであなたは何とかしたいという「気持ち」が起こっている。
そこからより良き方へ導くのがあなたの宿命、あなたが何かそこでできる事を見つけ出す機縁とすべきことではないではないでしょうか。
縁は働きかければ、かならず結果が変わります。
宿命と思われていることすら変える事ができます。
同じ気持ちを持った人たちが集まる場があります。
そこであなたが悲しい宿命を変えるべくよき縁の働きかけをなさっていただきたいと思います。

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菩提心

樹理亜様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

お優しい慈悲の御心をお持ちの樹理亜様、どうかその慈悲の御心をいつまでも保って頂けましたら有り難くに存じます。

三宝への帰依の思いと慈悲の心、そして、迷い苦しみにある一切の衆生が涅槃、悟りへと至ってほしいという思い・・まさに仏教において大切となる「菩提心」のことであり、誠に尊いことでございます。

「帰依と菩提心生起」について参照・・

仏陀・仏法・僧伽に
悟りに至るまで私は帰依いたします
私が積んだ布施行などの資糧によって
有情を利益するために仏陀となることができますように

すべての有情を救済しようという願いによって
仏陀・仏法・僧伽に
悟りの心髄に至るまで
常に私は帰依いたします

智慧と慈悲をもって精進し
すべての有情を利益するために
私は仏陀の御前に
完全なる悟りのために菩提心を生起いたします

この虚空が存在する限り
有情が存在する限り
私も存在し続けて
有情の苦しみを滅することができますように

※僧伽について・・(僧侶集団のこととなりますが、最近では、全ての出家者・僧侶を意味するのではなく、八地(不動地)以上に到達なされた聖者たちに対する帰依とされる場合もございます。)

合掌・・ここまで

「宿命」論につきましては、以前に下記の問いにても回答させて頂いておりますが、まず結論から申しますと、運命・宿命・決定論は、常見・断見のいずれにも陥る危険性が高くあり、「中道」を説く仏教からは、当然に退けるべき考え方となります。

問い「運命には逆らえないのでしょうか?」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002956277.html

「・・この輪廻の苦海の中にいる限り、色々な苦しみは、早晩、大小関係なく、様々に幾度と無く経験することとなります。・・」

とにかく、虐待されてしまう動物たちに限らず、この輪廻にある限り、大小様々に私たち衆生は迷い苦しんでしまうこととなります。

どうか全ての衆生たちがいずれ涅槃、悟りへと至れますようにとの菩提心を保ちて、仏道に精進して参りたいものでございます。樹理亜様の慈悲の御心、誠に有り難しでございます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

宿命ではなく、因縁によって起こる。
幸せになれる子たちと、虐待を受ける子たちの違いは、因縁によるのですね。
わざわざ酷い目に合うために生まれてくるのではないというだけでも、少し救いになります。
社会に色々な活動があっても、完全には止められない虐待の数々は、本当にどうして起こってしまうのでしょう。
生きている私たちがどのように行動することが供養になるのか、考えてみようと思います。

縁は働きかければ必ず結果が変わるというお言葉に、勇気を頂きました。
そうですね。このままにしておけないという気持ちを持って、私なりにできることから始めています。
こんなにも虐待事件が良からぬこととして気に掛かるということは、なるほど私の問題なのですね。

亀山先生が仰るように、無常の流れに沿って魂が流転していく世の中で、丹下先生の仰るように何がしかの縁を起こせば、例えばこの世でなくとも何処かで何かがほんの少しでも変わるかもしれない。
やがてその変化が巡り巡って、絶えず変化し続けるこの世の流れに何か良いものを運んでくれるかもしれませんね。

拙い解釈ですが、そのように感じました。
亀山先生、丹下先生、私の問いにお時間を割いて考えて頂き、回答してくださって有り難うございます。

あまりに勿体無いお言葉、有り難うございます。
お坊様にそんなふうに仰って頂けると、生まれてから今まで私の心を育ててくれた周囲の全ての魂の尽力も報われる気が致します。
なのでそのお言葉は、その方々へ有難く頂戴して、感謝を更に広く皆々様にお返ししていこうと思います。
私はまだまだ愚か者で、可愛いものが虐待される事件があれば犯人に激しく怒りを覚え、酷い報いが返ってくればいいとさえ思ってしまうのです。
なので今回お教えいただいた「帰依と菩提心生起」を覚えて、そういった怒りが湧いて苦しくなった時に唱えてみることに致しますね。
きっとこれは仏様が川口先生を通して、精進すべしと私に下さったものかもしれません。

「前世で悪いことをしたから、今度は動物に生まれて酷い目に遭う」などという宿命論は、やはり間違っているんですね。
動物たちが前世の業を背負って生まれてきて、それを昇華するために虐待されるなんて、あっていいはずがないと思っていました。
何も悪くない魂でも、因縁が悪い方向へ動いたせいで酷い目に遭ってしまう。
無常の輪廻が苦海なら、少しでも良い方向へ縁を動かせるように、できることを微力ながらでも頑張り続けるしかないのですね。
人間も動物も等しく成仏できるのなら、恐怖と苦しみと悲しみの中で亡くなった動物たちの魂も、仏様の掌へまっすぐと送り届けられるのでしょうか。そう願ってやみません。

川口先生、お時間を割いて私の問いを考えて回答してくださって、「帰依と菩提心生起」を教えてくださって有り難うございます。

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