輪廻転生について
こんにちは。昨日は私の質問にご回答頂きまして、誠にありがとうございました。非常に勉強になり、今後の参考にしたいと思いました。
立て続けで申し訳ありませんが、輪廻転生について、あと一点だけ質問したいことがございます。この質問で最後にしますので、ご回答頂ければ幸いです。
日本の仏教関係者の中には、和辻哲郎博士など輪廻転生を否定する説を述べられる方もおられます。その一方で、魚川裕司氏は著書「仏教思想のゼロポイント」で和辻哲郎博士の説を批判し「無我輪廻説」こそがお釈迦様の説かれた教えだ、と主張しております。先の質問で、お坊さまがおっしゃっておられた輪廻の本意はこのことなのかな、と思っております。
そこで、さらに疑問が湧いてしまったのですが、チベットやブータンでは、「輪廻転生による生まれ変わり制度」が存続しています。上記の解釈ですと、生まれ変わりを認めることは難しいように感じるのですが、この制度は民衆を導くための方便ということになるのでしょうか。
このような知識欲自体が煩悩なのかもしれませんが、どうしても知りたいと思ったので質問させていただきました。お暇なときで結構ですので、ご回答頂けるお坊さまがいらっしゃれば幸いです。よろしくお願いします。
理屈っぽい
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏教は八万四千の法門として場合分けが大切です
おっと、すれ違いで編集してしまいましたがありがとうございます。このような重ねてご質問は大変ありがたいです。そしてまさにゼロポイントを意識しての回答でした。
私は東南アジアでタイ系上座部の修行をして現地で見てきましたが、上座部でも民間レベルでは完全に来世に良いところに転生するための仏教です。これは短期出家でも同じです。戒を守ることで功徳を大きく貯めるわけです。しかし、時間をかけて禅定を学ぶことができる長期出家者は無我輪廻説で育てます。これは正に出家者には「来世のことなど考えてないで修行しろ!」と説き、在家者には「誠実に生きなさい。さすれば来世で楽を得るでしょう」と説いたお釈迦さまの対機説法=方便そのものですね。
しかしチベットやブータンの密教ではまたちょっと違うのですよ。というのもインド宗教がイスラムによって破壊された時、ガッチガチの輪廻転生主義であるヒンドゥー教やジャイナ教は復興しました。しかし仏教は自力で復興できませんでした。それだけ輪廻転生が人々に根深く、お釈迦さまというカリスマ亡き後、求心力を保てなかったのです。そこでヒンドゥー教やジャイナ教と習合して再構成し、インド仏教を復興させた潮流が密教です。チベット密教の一部にもセックスと悟りを結びつける修行がありますが、インド哲学にカーマ・スートラ(性愛の経典)があったことを思えば何も不思議ではありません。面白いでしょう?この辺の事情がありますので、チベット密教と原始仏教を結びつけるのは慎重に扱わねばなりません。
実際のところ私は密教の内容には疎いです。サンガジャパンの最新刊がチベット仏教特集らしいので読んでみようと思っていたところです。ダライ=ラマの転生のようなのがいかに原始仏教と結びつくのか、あるいはインド哲学色の強いものと割り切るべきなのか興味があるところですが、ぶっちゃけ思想なんてモノは解釈改憲でどうとでもなります。その半分は思想哲学とは際どいものだということであり、もう半分は自分の認知を過信してはいけないということでもあります。だから独学は毒なのです。
甘露門というお経にこのような言葉があります。「十方の浄土も心にしたがって遊往す。」知識は1つの答えに噛り付いて離すまい!とするから迷いなるのです。でも、十人十色の教えも引き出しの豊かさとして自在に行雲流水すれば、慈悲を育む糧になると私は思うのです。
佛は世に出て
大法輪を転じ、却って涅槃に入って、
去来の相貌有ることを見ず。
其の生死を求めるに、
ついに不可得なり。
便ち無生法界に入り、
処処国土に有履し、
華蔵世界に入って、尽く諸法の空相にして、
皆な実法なきことを見る。
唯だ聴法無衣の道人のみなり、
是れ諸佛の母なり。
所以に佛は無衣より生ず。
若し無衣を悟れば、
佛も亦た無得なり。
若し是の如く見得せば、
是れ真正の見解なり。
註
釈迦牟尼佛は、世に出られて、法を説かれ、
そのあと涅槃にに入られたが、
出たり入ったり、来り去ったりした姿はなく、
生まれり、死んだりということも全くない。
そのままで、生滅のない真理の世界に入り、
いろいろな世界に自由に出入りして、
毘盧遮那仏の願と修行によっ荘厳された
蓮華蔵世界(華厳経・華蔵世界品)という、
お浄土に入って、全てのものは、
実体がないのだと見極めた。
【だらか、有るとも言えないし、無いとも言えない、
もう一歩踏み込めば、有ると言えばあるし、無いと言えばない=拙生説】
この説法を聞いて、
何ものにも捕らわれない、自由自在、融通無碍なあなたの本質こそが、
諸仏の本質なのだ。
この境地に達したら、仏そのものが無存在になる。
【拙生説】
輪廻転生のごときは、そこに落ちれば迷いとなり、
そんな世界に行かないのだと、決め込んで、
大安心の中にあれば、
これは生きながらにして、往生決定した姿であり、
輪廻転生などないのである。
私釈なれば、許されたし。
ご苦労様。
心しだい
テレビでたまに前世の記憶を持っているとしか考えられない現象を放送していますね。
なので、生まれ変わりを否定はできません。
所詮、無知の私にはとても考えが及ばないことです。
全てのことは心によって成り立つ。
このようにお釈迦様は言いました。
生まれ変わりがあって欲しいと思うなら、そう強く心に信じて生きることが大切です。
私は極楽浄土に生まれたいと願っていますから、心に阿弥陀様と極楽浄土を信じて生きています。
結局はあなたの心しだいなのです。
あなたの望みは何でしょうか?
質問者からのお礼
お坊さま方、ご回答誠にありがとうございました。また、お礼のコメントが遅れてしまい申し訳ありません。以下にそれぞれのお坊さまにお礼と感想のコメントを述べさせて頂きます。
聖章様 ご回答誠にありがとうございました。「結局はあなたの心しだいなのです。」というお言葉は、その通りだと思いました。もしかしたら、死後も輪廻するのはその「思い」なのかもしれません。私は、「善因楽果・悪因苦果」が(死後を含めて)成り立つ世界であってほしいと願っています。
三浦康昭様 ご回答誠にありがとうございました。
>輪廻転生のごときは、そこに落ちれば迷いとなり、
>そんな世界に行かないのだと、決め込んで、
>大安心の中にあれば、
>これは生きながらにして、往生決定した姿であり、
>輪廻転生などないのである。
というお言葉は、聖章様の言われていることと同じことかな、と思いました。結局は自分の心しだいだということですね。また、「全てのものには実体がない」というのは、正に仏教の真髄を言い表しているように感じました。どんな教えも、結局はただの「言葉」で実体はないのかもしれません。ご回答ありがとうございました。
大慈様 ご回答誠にありがとうございました。チベットやブータンの密教では、そのような歴史があったのですね。確かに、戦争などが起きれば、教えを守る為に様々な工夫をしなければいけないと思います。密教は仏教の復興の一形態だということが分かりました。
また、「ぶっちゃけ思想なんてモノは解釈改憲でどうとでもなります。」というお言葉は正にその通りだなぁ、と感じました。どんなことだって、正当化しようと思えば理屈づけられますよね。大事なのは、その教えで「救われるかどうか」なのかな、と思いました。「十方の浄土も心にしたがって遊往す。」というお言葉は、正に「苦を除くための教え」である仏教らしいお言葉だと思います。ご回答誠にありがとうございました。