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悩み

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今大学浪人中で六年目になります。一年目二年目はやる気に満ちていて大学に行きたくて行きたくてたまりませんでした。でも今は大学生になりたくない、人と会いたくない、人の多いところに行きたくないなどと後ろ向きです。今は予備校に通っていますが授業が始まるまでいきたくありません。授業が始まってもあまりいきたくありません。何をするにも億劫でなにもしたくありません。毎日ボーッと楽しくない日々が過ぎていってます。何か変えようと部屋の掃除や身だしなみに気を使っていますが気分は晴れやかになりません。どうやったらやる気を取り戻し前向きに受験に向かえますか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

こだわりがありませんか?

亀山純史と申します。
「こうならなければ、自分は幸せにはならない。」という考えにこだわってしまうと、人は不幸になります。このような心のあり方を仏教では執着(しゅうじゃく)と言います。浪人生活6年目ということは、もしかしたら、このようなこだわりの心がありませんか?浪人をしても、そこにはっきりとした目標があり、それに向って取り組んでいるのなら、問題はありません。しかし、前向きに物事を考えることができないのならば、そこに「こうでなければ、自分は幸せになれない。」というこだわりの心が先行しているのかもしれません。もし、そのようなこだわりの心があったならば、その心(執着心)から一旦離れてみることをおすすめします。そうすれば、そこに今のあなたのままで頑張っていける道が開けてくると思います。(誤解されないために言っておきますが、決して大学進学をあきらめることをすすめている訳ではありません。)
みいさんに、明るい未来が訪れることを願っております。

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おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

大学に行く意味を確認しましょう。

みいさん、ご質問ありがとうございます。

6年の浪人生活ということですが、大変なことだと思います。

往々にして、2年以上の浪人生活では、当初のやる気を失ったり、勉強する意味がわからなくなることが多いようですね。

どうしてあなたは大学に行こうと思ったのでしょうか?

あなたの今やっている勉強は、何のためなのでしょうか?

一度、そこを確かめてみることをおすすめします。

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おきもち

個別相談可能
真宗山元派上西山正善寺住職

つくりかえない生き方

まず、人と会いたくないという事について。
他人さまというのは、居ながらいないようなものです。
意識した時だけ、心の中で❝現われる❞存在としてみてみましょう。
その相手を過度に意識しなければ、沢山の人がいても、良い意味で傍らに人無きが如くです。
意識した時にしか、心の上には、「人」は現われません。
電車の中や予備校などでも、沢山の人がいながらも、まるで人が意識されていない時があるでしょう。
親しい家族であっても、スマホに夢中な時は忘れ去られているでしょう。
そこにいくらたくさんの人がいたとしても、あなたの心の中に❝のぼって❞いなければ、そこには人がいないに等しいのです。
人が、あなたの中に機能されない、意識されないのです。
私もアナタも、誰もが皆、自分が自分自身という、この体を一生、生きていくだけです。
自分が本当に自分を生きてみましょう。
親のために大学に入る訳でもありません。
自分が生きたいように生きるのがあなたの人生です。
入りたい大学のハードルが高ければ、無理を悟り、他の学校を選択したってイイのです。
何処でも学べるもんは学べるからです。学びを吸収する力があるのは、ここ、自分自身ですから。
ハーバード、東大入ったからって、みんな成功している訳では無いでしょう?
あと、ムリに、前向きになろうとしないことです。
今ある真実を、そのままに、つくりかえずに脚色せずに生きてみましょう。
気分がのらない時は、あー、まぁいいかー、と力を抜いてみた方が、あとから力が湧いてくることもあるものです。
前向きに生きようとかじゃなく、力を思いっきり抜いて、自分本来かえる事がおススメです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

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