怒り、憤りの手放し方はありますか?
こんにちは。初めて相談させていただきます。
よろしくお願い致します。
去年の12月ごろから今年の2月の頭まで、ある男性と付き合ってはいないものの、よくデートをしていました。しかしその後、体の関係を持つと(付き合えると思っており気軽に関係を持ってしまったこと、今はとても反省しています)彼から"人生に行き詰まっているため"といって距離を置かれてしまいました。
当時は彼のことを好きだったため残念でしたが、しょうがないな、彼の人生がうまく行くといいなと思い完全に手を引きました。
そしてその2ヶ月後、今月の頭に突然、生活が好転したから会って報告したいという旨の連絡を受けました。
実際に会ってみると、以前デートをしていたときのような態度で、これからの関係を匂わせるようなことを話してきたので、向こうの態度次第では(まだ好きではあったものの)きちんと友達として接しようと思っていた私もすっかり元のように接するようになりました。
しかし、その日の終わり頃に実は私の街に彼女ができ、その人と暮らすようになったことを伝えられました。
そして無意識のようなのですが、
・彼女のことが気になり、それが原因で私から距離を置いたことを匂わせる
・彼女の人柄を褒めるために私のことを貶す
などをしていました。
彼女がいるのになぜその日勘違いをさせるような行動をとったのかと聞くと、
"僕のことを好きだとは薄々しか気づいていなかった、期待させるとは思わなかった。友達のつもりでやった"
と弁解されました。
・自分が幸せになった途端に人の気持ちもすっかり忘れて、甘えても許されると思っていること
・理詰めで"私を選ばなかった理由、欠点"などを言い出し、自分が責められ傷つかないように他人を傷つけること
など、とても悲しく、とてもバカにされた気持ちになりました。
今になって思うとたくさんの反論、文句、憤りが湧いてきますが、当時はあまりの衝撃にそれらの言葉を理解することもできずに、いわれるがままでした。
彼のことを忘れたいのに、この馬鹿にされっぱなしで言い返すこともできなかったモヤモヤした怒りや、発散できなかった憤りが今でも時折顔を覗かせ、苦しめます。
どうすれば、この気持ちを消化し、少しでも彼を思い出さなくなるのでしょうか。
長い文章になってしまいましたが、よろしくお願い致します。
男性に愛されたいと思ってしまい、私のことを好きだという男性ならば受け入れてしまう。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人の心は求めても得られない。
なぁんとなく、あなたも結論は出ていると思うのです。
でも、なぁんとなく、彼がまだ私に気を向けてくればいいのになぁと思うでしょう。
でも、なぁんとなく、裏切ったことが今後も許せそうにないと思いませんか。
恋愛に似た、自己愛ってあるもので。
その時点で、相手もあなたもなぁんとなく、相手より、自分の事が好きなんじゃないかと思うでしょう。だとしたらそれって、相手に恋しているから修直が起こっているというより、自分を裏切ったことに対する執着心かもしれませんね。
仏教では、そういう自我、自己中心的な気持ちはあまり良いものとはしていません。
むしろ、遠ざけるべきものです。
相手も悪いが、自分の求めかたも、なんとなく、恋と言うより、愛と言うより、自分を大事にする気持ちが一番強かったのではないでしょうか。
それに向き合える勇気があれば、あなたは、別の道を歩めます。
相手LOVE、小さな自我LOVEを超えた、本当の自分LOVEの道です。
その道は、自分も相手も傷つけない、傷つかない道です。
「怒りの原因は自分の意見の押し付けである。」
「怒りは相手を自分の思い通りにさせようと思い、それがかなわない時に現われる自己中心的なエネルギーである。」
「怒りは、自他ともに傷つけあう毒であり、慈悲は、自他ともに赦しあう薬である。」
過去は過ぎ去りもう無い。妄想は短めに。
過去は過ぎ去りもう無い。
未来は未だ来たらずまだ無い。
すでに無い過去をネタに、
妄想→怒り→妄想→怒り・・・ぐるぐる堂々巡りで感情を増幅させているのかもしれませんね。
妄想(彼のこと)が思い浮かぶのは仕方ありません。
しかし、妄想をする時間をできるだけ短く、妄想をカットするように心がけましょう。
例えば、3分考えて答えが出ないことを、同じ情報しかもたない同じ脳みそで何時間考えても結論は変わりません。
新しい情報が入れば答えも変わるかもですが、過去のことは新しい情報が乏しいので、無駄に妄想を繰り返しがちになりますよね。
(私もそれ、得意です!)
私は南無阿弥陀仏と口でとなえる宗派の者なので、これについて話します。
念仏(南無阿弥陀仏)を心の主人、それ以外の妄想雑念を心のお客さんだと考えます。
お客さんに占領された心を、さっと主人(念仏)に戻すのです。