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親友と同僚になります。

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うちの職場で急な欠員が出ました。
資格職で即戦力の人材を求めていたため、なかなか見つからなかったところ、大学時代の同級生がちょうど求職中だったので、紹介しました。
条件面で合意に至り、来月から同じ職場で働く事となりました。

私の一番の親友というべき友人です。
大学時代はいつも一緒で、卒業してからも、度々会っては、ガールズトークに華を咲かせていました。

職場は全スタッフ20名程の動物病院です。
親しい友人であることはそのままに、しっかりと公私の区別をつけるには、どうすれば良いと思いますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仲良くするのは良い

公私の区別とは、どういうことを心配されているのでしょうか?
その友人に対して、職場の先輩として接することができるかどうか?
職場で仲良しの雰囲気がでて緊張感がなくなる心配?
他の同僚からの視線?
職場の先輩後輩になることで友人関係がおかしくなる心配?
おそらく、心配するほどのことはありません。
大丈夫。
あなた自身が、すでに、公私の区別の大切さを理解しておられるんだから。
ただ、もしも可能ならば、友人と違う部署・違う担当にしてもらうほうが楽かも。
あと、職場でこそこそ会話するのはやめて、話すときは堂々と話すこと。
でないと、周囲の人が、自分の陰口を言われてないか心配する可能性があるので。
いずれにせよ、友達であることは隠さずに、周囲に言っておくほうがいいと、個人的に思います。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

そういうのをこそ いい加減にやめる

今までのご質問からも質問者様のご性格がうかがえますので、申し上げますが、そういうマイルールをこそやめることですよ。
自分が毎回自分を縛ってきたことに眼を向けるべきです。
肩書き越しに相手を観る事は、友人を無くす行為です。
お互い大平凡の只の人同士で付き合う事が一番良いと思います。
ルールを敷こうとすると、そのルール通りに行かなかった時のあなたはどうなると予測されますか?
あなたがルールを敷こう、敷くまいと、その前から、それはそれとして完結しているという事のまま、過ごしてみてください。
観念的な生き方から解脱しない限り、仏教は役に立ちません。

☆肩書きやルール越しに相手と接するという事は、
幼少時代仲が良かったこどもの友達同士を、親が「宗教が違うから」と言って遊ばせなくするようなものである。
そういう精神は、いくらお互い信ずる宗教があるからといっても、宗教とも宗教心からも程遠い精神である。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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