世俗諦と僧侶の立場について
死刑制度に関し、瀬戸内さんは反対の立場で、
「殺したがるバカどもと戦って下さい」と発言し
ていました。
後に被害者感情を鑑み、謝罪はしていますが。
僧侶という立場を前提で、違和感を感じました。
・世俗的なことについて、どちらか一方の立場に
たつことは僧侶として、普通なことなのでしょうか。
・上記発言自体が、怒り(瞋)ではないのですか
世俗のことは、民主的な手続きで決まったことです
から、世俗に任せればと感じました。
確かに、仏教でも「不殺生戒」はあり、その意味では
理解できます。
また、これまでも冤罪もありましたので、その意味
でも、死刑反対は理解できます。
世俗的なものごとは、ある立場、ある目線を前提に
議論されることですから、普遍性もないし真理でも
ないと思います。
僧侶という立場、仏教の教えとは、衆生の悩み・苦しみ
などの煩悩をなくす為のものと考えていました。
その意味で、世俗諦と僧侶の立場についての見解を
お聞かせください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
世俗諦は、勝義諦へ至るためには当然に依拠すべきもの
七一九様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
過日の日弁連のシンポジウムにおける瀬戸内寂聴さんの発言におけることでは、下記のご質問においても拙回答させて頂きました。
問い「死刑制度で質問です。」 http://hasunoha.jp/questions/12483
最後のところで、「仏教の場合では、「業」(カルマ)の問題を考えて、死刑制度を容認している場合は、それが悪業となるものであると悪意有過失(知りつつ不注意にて是正せずに放置している)であれば、自らの悪業となる恐れも否めないというところがございます。」と述べさせて頂いたものの、回答字数制限の関係上、中途半端になってしまっておりました・・
正直なところ、上記の意図が瀬戸内寂聴さんの発言の中においてあったのかどうかは分かりませんが、あの発言では、説明不足過ぎると共に、言い回しの悪さ、軽々さがあったのではないだろうかと存じます。謝罪をなされましたので、非はお認めになられておられるようですが・・
・世俗的なことについて、どちらか一方の立場にたつことは僧侶として、普通なことなのでしょうか。
確かに勝義諦としては、「空」であり、何らとして実体の無いところに依り立つことはできないのですが、かといって、世俗世界で生きている以上は、当然に縁起的に成り立っている世俗のモノ・コトには従わざるを得ないところがごさいます。
例えば、赤信号、青信号も「空」であり、何も実体として成り立っていない、依り立つことができないとして、赤信号の交差点に突っ込んでいけば、最悪、事故で死んでしまいます。世俗で生きている以上は、世俗のモノ・コトの分別にも従わないといけないところがあるのは仕方のないものとなります。
・発言自体が、怒り(瞋)ではないのですか
正直、あの発言は政治的思想背景もあってのことでしょう・・真なる智慧・慈悲による救いへ向けた怒りであれば、不動明王様の怒りにも通じるところとなりますが・・あれでは感情的な煩悩による怒りと捉えられても仕方がないものであるかと存じます・・
「世俗諦と僧侶の立場」・・龍樹大師が根本中頌でも述べられておられますように、世俗諦は、勝義諦へ至るためには当然に依拠すべきものとなります。「月を指す指」として、しっかりと理解をしていく必要があると存じております。
川口英俊 合掌
完璧な結論は無いと知って初めて着地点を目指せる
>世俗に任せればと感じました。
私としては同感です。しかし日本だけで35万人のお坊さんがいますが、それだけいれば色々なお坊さんがいますよ。これも怨憎会苦の一種でしょう。
瀬戸内寂聴さんを「作家として話題づくりで出家したようなものだ」と嫌うお坊さんは元々少なくありません。正直、お坊さんの基準にして欲しくありません。
逆にお坊さんを神輿にして自分たちの主張を正当化しようとする人たちもそこら中にいます。「僧侶ともあろう者が殺生を止めさせないのはどういうつもりか!」と。このように出家者を世俗に引き寄せる行いはマーラそのものです。それに流されてしまう老いもあったのでしょう、きっと。
まぁしかし、お坊さんにも納税義務と参政権がありますので、そこはバランスの問題として受け入れて頂ければ幸いです。お釈迦さまも為政者に仏法を説き、仁政に導くことで救いのマクロアプローチを試みています。
>世俗的なものごとは〜真理でもないと思います。
本当にその通りです。しかし大部分の人はこれが分かりません。もっと言えばアッチを取ればコッチが付かず、コッチを取ればアッチが付かない中で、『どう折り合いを付けるか』という視点が無い…どこかに絶対無敵のウルトラCがあると信じています。
一切皆苦、何事も思うようにならない…そこを飲み込んでこそ心が自由になる…そこを説いてこそのお坊さんです。
死刑制度が話題になるたびに思います。テレビのいわゆる『有識者』でさえ、誰も包括的に論じないと。Wikipediaの「死刑存廃問題」のページでさえ7つの論点を廃止論側と存置論側の両面からまとめています。きっと専門的にはもっとたくさんあるでしょう。
でも、みーんな1つ2つの視点を結論ありきで熱弁するばかりです。まるでグーを出されたらトランプのエースを出し、エースを出されたらウノのドロー4を出すような、まるで噛み合わせる気のない『議論』です。
特にネットが普及してから、現代人は何でもかんでもすぐ『議論』し過ぎです。思いつきで『議論』する前に、すでに経過した議論を学ばないと話が前に進みません。いちいち振り出しに戻っていては民主主義が衆愚政治になるだけ。そのような泥仕合いこそ苦のループです。議論した結果、視野が広がらなければ逆効果。そういう所を周知したいですし、そこを建設的な方向に持って行ってくれる人に投票したいですね。
質問者からのお礼
川口様
早速のご回答、ありがとうござます。
人間世界で生きている以上、確かに決められた
ルールの上で生きるしかありませんね。
僧侶でない一般人は、僧侶の皆様や仏教界に
関わる皆様を「徳」のある方だと見てしまい
がちと思います。
ですので、僧侶の皆様には、政治的なことなど
世俗的なことを述べるよりも、「縁起」「無常」
「無我」「苦」の理解をさせる為の説法や智慧を
述べられることを期待していました。
何かに期待する、これも依存なのかもしれませんね。
なかなか、思うようにはまいりません。
大慈様
ご回答、ありがとうございます。
> お坊さんにも納税義務と参政権
はい、勿論お坊さんにも一般人としての
権利を批判するものではありません。
> 一切皆苦、何事も思うようにならない…
> そこを飲み込んでこそ心が自由になる…
> そこを説いてこそのお坊さんです。
まさに、ここなんだと思います。
どうしたら、悩み苦しみが軽くなるかを
気付かせることが仏教なんだと考えます。
> 特にネットが普及してから、現代人は何でも
> かんでもすぐ『議論』し過ぎです。
はい、ネットの発達とともに、単なる批判も
増えたように感じます。
特に、ネット社会では匿名で発言できることも
あり、原因なのかもしれません。
やはり、幼少期からの道徳教育は大切だと
感じるこの頃です。
できれば、仏教を宗教でなく、道徳教育として
ツールとして利用されればいいなと感じます。