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生きていくことは難しいことなのですか?

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現在1人暮らしの20代男です。

飛び込み営業の外回りの仕事をしてます。
いま現在は公園のトイレに逃げています。
怒られるのが怖くて、人目につくのが怖くて、頭痛や腹痛、倦怠感がここ最近は常にあります。
職場では気持ちの問題と上司から言われ、自身でも気持ちの問題。不甲斐ないだけ。情けないだけ。もっと頑張らないと。みんな我慢してるんだといままで言い聞かせてきましたが、今月の初めから体調面、精神的にもおかしくなってきている気がします。
いますぐにでも辞めてしまいたいし、いっそもう終わりにしようかとも思ってます。
でも終わりにしたくない気持ちもあります。

いったいどこから手をつけていけばいいのでしょうか?またこのくらいは皆さん我慢したり気にしないで生きているのでしょうか?私には生きていくのが難しく、苦痛です。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

飛び込み営業の仕事

こんにちは、お仕事お疲れさまです。

飛び込み営業の外回りですか。
向き不向きが結構ある、向いてない人には高ストレスの内容ですね。

少し話を変えますが、友人から最近グチを聞きまして。
引っ越したマンションに新興宗教の人らがよく営業(?)しにくるんだそうです。
そういえば同期のお寺にも、某キリスト系団体がきたとかいってましたっけ…。
いい悪いはともかく、彼らは断られてもめげません。
それは自分のオススメしてるものがイイモノと確信してるからでしょう。
貴方はどうでしょうか。
飛び込み営業で奨める商品・サービスは心からイイモノと思ってますか?

ですが私も「仏教」を飛び込み営業しろと言われてもできません;
飛び込み営業が苦手だからです。
気持ちの問題と言われようが、我慢が足りないと言われようが、苦手なもんは苦手です。

ああ、でもこんな話があります…

お釈迦さまが托鉢(モノを恵んでもらいにいくと思ってれば)をするに当たって「貧しい家に行きなさい」と仰いました。
弟子たちは(えっ!?裕福な家のほうがいいのでは?)と思いましたが、絶対の上司であるお釈迦さまの言うこと。
しぶしぶ行くと案の定「なにしにきた!?」「こっちが恵んでもらいたいよ!」と怒られる始末。
弟子は「やはり裕福な家に行くべきでは?」とお釈迦さまに尋ねたところ「違う、貧しいものは貧しいがゆえに、他者に分け与える喜びや大切さを知らないのだ。彼らは余裕があればすると思っているから分け与えられないのだよ。それを気付かせてあげるのが托鉢修行なんだよ」

うーん、もしお釈迦さまにこう言われたら頑張るしかないですけどね。
さて、いったいどこから手をつけていけば?とありますので…

まずは「営業している商品・サービスの心から感じられるよさ、そしてそれは必ず相手を幸せにできるもの」という確信を持ちましょう。
その上で、「どんなに素晴らしい商品でも、今相手にとってご縁がない場合もある」という割り切り。
そして「そもそも自分は営業がしたいのか、向いているのか」という問いかけを持ってみてはいかがでしょう。
その答え次第では、退職もやむなしと私は思いますよ。

仕事を人生にしちゃダメです。
今そうなっているから必要以上に苦しむ。人生≠仕事。
道は必ずあります、探しましょう。

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有り難し
おきもち

困っている人や悩んでいる人にとって、仏さまの教えが少しでも良薬となれることができればと思います。 そしてこの縁によって仏教の良さを知って頂けるととても嬉しいです。

ここにいる回答僧がみんな飛び込み営業だとしたら

学生時代は「坐禅とかいうキモいものをやるのが嫌で嫌でしょうがなかった」ものです。
なんでお寺に生まれちゃったんだろう。
オマケに退屈で足のイタい坐禅の宗派なんぞに…(-.-;)
そんな私がこのhasunoha爆回答40000ありがたし超えスッキリやTVタックルやぶっちゃけ寺やニュースリーダーやレディス4などTV出演しちゃうのも実は「坐禅」の力によるものです。
私の唱導している坐禅はパネェです。もちろん、そこら辺の坐禅会では絶対に味わえない、毎週8名限定です。
実は僧侶も含め99%の人が誤解していますが
…ヒソヒソ…
坐禅って座らなくていいのです。
本当です。
え?だって私、今日も座ってませんよ?
そんな座ってばっかじゃご飯も炊けません。
最近は回答を控えています。
その気になったら、今日中に全部回答しちゃうからです。
なぜ、こんなにエネルギーが溢れてくるのか。
それが坐禅のチカラ、坐禅の功徳です。
じゃ、坐禅って何をすることかと言いますと、 

ここまでにしておきましょう。
どうです?
ちょっと興味がわきましたか?
続きは後ほど。

どんなものも、元々価値はないのです。
価値が分かる人は高いお金を払ってでもそれを求めます。
本当にその価値が分かった人間がその価値、活用法を熟知して、その真価を知らない人の欲をツンツン刺激してほしがらせることで、ニーズが誕生します。
価値を伝えるためには、まず自分がそれに価値を見出さないといけません。

仏教や禅というものは物事の根本です。
価値が分かる人であれば坐禅会に足を運んでみて、食らいついて本気に求めてください。
何故坐禅してものになる人と、全く役に立たない人と、かつての私のように役に立たないと思っていた人間が坐禅によって大きなチカラを得られた人とがいるのか。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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