質問に答えていただきたいです。
この世についてどう思いますか。解釈ではなく本当のところリアルなお坊さんなりの真実をぶっちゃけていただきたいです。怒りですか。呆れですか。虚栄ですか。私利私欲ですか。
この前にふたつ質問しているのでそれにも答えていただきたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたはまだこの世をストレートにみていないと思います。
私も若い頃今も40で若いですが肌の張りもピチピチでだったスリムだった頃、あなたと同じように想えたことがありましたよ。分ります。
ですが、それは「おれ」という自分越しのフィルターで眺めたビジョンであって、実はこの世界のノンフィルターな姿を視ていなかったのです。
それに気づいたのは、この世の無常を感じた時…ではなく、サングラスをかけてガチャピンをみていた時、だんだん別のキャラクターに観えてきた時でした。
見えると観えるの違いを知りました。
肉眼で見ていることと、脳内で「観」ているものとは異なるものです。
事実と想念の世界の違いです。
たとえばピコ太郎さんが流行って一度脳内に取り込まれると、パンチパーマのちょび髭おじさんがすべてピコ太郎に観えてしまう。ヤクザ事務所の前にいたパンチパーマのサングラスおじさんに「(゚∀゚)ピコ太郎さんですよね?サインください!」と気安く話しかけたらボコボコにされてしまいます。
この世のパンチパーマおじさんはみんなピコ太郎でしょうか。いいえ、その事務所の前にいるそのおじさんは確かに似ていますが、とっても怖い人ですから気安く話しかけてはいけません。
何を言いたいって【自分の想念の先に事実がある】という事を申し上げたいのです。
あなたは想念を優先させている。
この世は、良いものでも悪いものでも怒りでも呆れでも虚栄でも私利私欲でもないです。
あなたがそういう風に思ってしまう。そういう風に思ってしまう人の頭の中でだけ、そういうビジョンになるだけです。
hasunohaの回答が間に合っていない、追い付いていなかったようで申し訳ありませんでした。尚更僧侶に嫌気を感じたでしょうが、我々は回答待ちなだけ。百歩さがって深呼吸して改めて、この世を見回してみてください。
「わたし・おれ・じぶん」というあなたの自我フィルター無しに物事を見るようにつとめて下さい。
仏道、仏法を修行するという事は、まさしくその自我フィルター、エゴフィルター、自分中心目線を取り除いて、ストレートに事実をみる用になる道です。
自分中心目線ですと、どうしても自分の考えびいきになる。
視界、世界が狭くなってしまうのですよ。
もし、もっとこの世を愛せるようになりたければ、この世を毛嫌いするのではなく、僧侶や人を嫌うのではなく、そう思ってしまう自分の中の自分フィルターの存在に気づいてみましょう。
ごめんなさいね。しばらくお待ちください。
こんにちは。
ここhasunohaは、現在質問制限がかかっており、一日に30件程度の問いがきます。
登録のお坊さんは100人くらいいますが、みなさんお坊さんとしてすべき仕事をしながら、そのあいまにここで答えを書いています。ですので多分一日あたり実質5人程度のお坊さんしか答えることができていないと思います。また質問の内容によっては一日考えて書くこともあります。ボランティアでやっていますしね。回答のテンポはゆっくりです。
ですので、なかなか答えがつかないのはごめんなさいね。しばらくお待ちください。
あとね、新しい質問は、せめて前の問いに答えが入ってからにしていただきたいです。現在問いに制限がかかっており、他にも質問したい方がたくさんいらっしゃいますので。ご配慮を願いますm(_ _)m
あ、この世についてですか?この世はそれをひっくるめてこの世です。これがリアルで真実です。
この世と人生は苦楽です
拝読させて頂きました。ご質問頂きありがとうございます。私なりに回答させて頂きます。
人生は苦楽ですね。現実にこの世を生きていくことはどの様な状況にあっても大変苦しいことが連続しておきます。その中でわずかに喜びや楽しみがあり、あまたのものごとに囲まれて生きているのです。
苦しみは本当に味わってみなければわかりません。味わってみてはじめてその痛みがわかり、人の痛みもわかるのです。だからこそ喜びを感じて人と共に分かち合うことができるのです。
頭の中で考えることも大切ですが、現実を直視して自分で体感なさりながら己れの人生人の人生人の世について考察なさり、何が大切なことか、何が正しいことか、私達は何をもとめて生きているのかをこれからの人生で学んでください。
あなたは独りではありませんから、この世をこの時代を共に生きるものとして学んで参りましょう。
一切は苦
息を止めてください。
苦しくなって息を吐きたくなります。
では、息を吐き続けてみましょう。
苦しくなって息を吸いたくなります。
息を吸い続けてみましょう。
苦しくなって息を吐きたくなります。
人生は、これと同じです。
この世は、次から次へと苦しみの刺激がやってきて、次から次へと対処し続けなければならないのです。
快楽でさえ、その正体は「苦」なのです。
だから、どんなに楽しいことでも、ずっとやってたら嫌になります。
これも運命です。よね。
問いかけても放置される、これも運命なんでしょ?あなた風に言うと。
でも何となく苛立って、「この間のに答えてくれ」って言っちゃう。「運命だから」って受け入れたくないのかな?って思う。
あとね、「お坊さんなりの真実を」、それを「解釈」というのよ?もちろん坊さんに限ったことではなく、「誰かが表現する」という時点で、それは当人の状況に立った「解釈」にしかなり得ないんだけど…。その辺り、分かりますか?
で、この世…学校みたいなもんかな、実験と経験と学びとがあって、いつか卒業するところ。
でも、あなたの挙げている例は、みんな「この世の人」についてみたいだけど、「この世」について聞きたいんだよね?
おまたせしましたー!
三度目の回答ですが…!もうしばらくお付き合いくださいませ!
この世の真実ですか…!これを言葉にするのは、難しいですね。
言葉と解釈は常にセットだからです。言葉を媒体とする限り、解釈からは逃れられません。
言葉とは、意外と器用そうで不器用なのです。
というわけで、世の中の真理(=あなたのいう真実ですね)と解釈のはざまを伝えようとした方のお話をご紹介します。
「拈華微笑」というお話です。
とある日の、お釈迦様のご説法。
お花を一つお持ちになって皆の前に立ち、にっこり微笑みました。
弟子の摩訶迦葉が、その真意をくみ取り、微笑み返しました。
…以上です。おおお、なんとシンプルなのでしょう!
上手に「真理」と「解釈」のはざまにいます。
お釈迦様、絶妙な匙加減です!素敵すぎるー!
どうでしょう?・・・何かピンときましたか?
…さて、次に、私の言葉を通して「真理」についての「解釈」をさせて頂きます。
「拈華微笑」のワンシーンよりも、「解釈」をしている度合いは高まります。
真理とは、理性や感情によって識別される以前の、未分化の状態の世界のことです。
いわゆる「あるがまま」の状態ですね。
「全て」が存在し、それを問わない状態なので、同時に「何も(言葉で表現しようが)無い」のです。
(さらにもうひとつ補足を言うと、怒りや悲しみなど、人間の様々な感情を根源まで辿っていくと「快」と「不快」のいずれかに分類されます。しかし、「真理」とはそのような「快」と「不快」という名前の「感情の解釈」を超えたその先にあります。なので、巷でいう「悲しみの真理」などという表現は、残念ながら適切で無くなってしまいます!)
以上です。どうでしょう?…何かピンときたでしょうか?
と、ここまで説明しておいて何ですが・・・
共通認識(=共通の解釈)というものは、その対象を互いに知覚しているからこそ成立するものです。ということは、あなたが幾ら問うても、あなた自身が正しい形で「真理(真実)」を知覚しない限り、どなたからどんな回答がきても、納得できないと思うんです。
だからこそ、お釈迦様は「拈華微笑」し、祖師方は坐禅を組み念仏を唱え一挙手一投足を以って修行に馳せ参じたのでしょう。故に、私たちも彼らに倣うし、あなたもぜひそうして欲しいと願っています。
というわけで、灰ならししてきますー!
合掌
質問者からのお礼
結局世俗的価値観から抜け出せてない答えで少々残念でした。お坊さんは世俗から身を置き自分の真理心理疑問矛盾を探究追求し解き明かし理解を深めていくものかと思っていまして。その理解を世に反映してとらえ考えていると思っておりました。質問の意図としてはそうじゃないよという返答をしやすくするよう質問しました。諦め開き直りが見えて少々残念です。
返信ありがとうございました。