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生まれ変わりについてです。

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有り難し有り難し 39

すみません初めて質問します。

生まれ変わりというのはとても不思議だと思います。
生まれ変わったら生まれ変わった人の魂などはどうなるのでしょうか?

また、生まれ変わったあとの人生が終わってしまうと。魂はどうなるのでしょうか?
前世のひとの魂?がまた生まれ変わるために天国へいくのかそれとも生まれ変わった人の魂が天国へいくのか疑問におもいました。

わかりにくい質問ですみません。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

死んだ次の瞬間に変わる

魂がどうこうは考えなくてよいと思います。
魂のままでフラフラしていることはなく、死んだらすぐ次の瞬間に、新しい生き物が生まれているのです。
生まれ変わった後に死ねば、また生まれ変わると考えられています。
仏教では、無始(始めがわからないはるか昔)から生まれ変わりを繰り返していると言われます。
ただし、悟って完全に煩悩がなくなった方(仏やアラカン)だけは、輪廻転生のくりかえしから解脱できると考えられています。
仏教の六道輪廻の思想では、天国という場所ではなく、天という種類の生き物に生まれかわる可能性があります。
天とは、神様みたいな生き物です。六道(欲にとらわれた六種類の生き物)として、天・人・阿修羅・地獄・餓鬼・畜生があり、そのどれかに生まれ変わるのが大半です。
天(神様)にも寿命があり、死ねばまた生まれ変わるのです。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

魂はそもそもありません。

浄土真宗の立場では「全てのものに魂はない」と説きます。
(※魂を認めるという考えもありますが、浄土真宗はその立場を取りません)
魂がないことを「無我」「無自性」「空」と言います。
しかしお釈迦様は輪廻を説きます。
つまり『魂がないものが輪廻をする』というのが仏教の話なのです。
「んじゃ何が輪廻するの?」という疑問が湧きますが、それを解釈するのは少し難しい仏教教学知識が必要になりますので、ここでは省きます。

魂はありませんので、死後浮遊したり地縛霊みたいになったりすることはありません。
全てのいのちの結果は二通りです。
輪廻をするか往生するかです。
次のいのちが始まるか、解脱して浄土に生まれるかの二種類です。

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有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

死んだことのある人はいない

生きている人間の思想です。
冷静になって物事を理性的に観察してください。
死んだことのある人で、生きている人がこの世にいるのでしょうか。
「仏教の思想は「思想」であって仏教ではない。」という言葉をよく味わってみてください。
本当のこと本当に知りたいのならば、私が考えている事は誰かが作った空想の絵空事かも…、という疑いも大切にしてみましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

死後におけることについて

まつなか様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

死後のことにつきましては、これまでも下記の各問いにお答えさせて頂いております。

http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_324660.html

それらの内容における要点と致しましては、

一、仏教の基本的な立場として、死後におけることは「無記」として、意味のない、益とならない議論であるとして退ける。

次に、一応は方便的に死後のことを論ずるとしても、

一、死後における自分が何も無いとしてしまうと、断滅論となって、虚無・絶無に陥ることによる弊害を生じさせてしまいかねません。

一、死後における自分が何か有るとしてしまうと、常住論となって、実体・自性を認めてしまうことによる弊害を生じさせてしまいかねません。

一、次に、死後における自分というものが無いというわけでもなく、また、有るというわけでもないとすると、結局は何か訳の分からない不定主義に陥り、曖昧で、いい加減なものとなってしまいかねません。

以上を踏まえた上にて、現時点における拙見解と致しましては、空にして縁起なるものとしての「心の連続体」・「心相続」というものを仮立してご説明をさせて頂くようにしております。

ただ、この「心の連続体」・「心相続」というものは、あくまでも論理的推論によって仮定、措定されて言えているものでしかなく、問題はやはりそれが真に何であるのかは、しっかりと理解して確信できるための修習が必要になるかと存じております。

とにかく、言えますのは、善き因縁には善き結果があり、悪い因縁には悪い結果があるということで、今の自分のありようは、過去における因縁による結果であり、そのありようが迷い苦しみの中にあるならば、やはり、その迷い苦しみに至るだけの因縁があったのであり、この迷い苦しみを何とかしたいとするならば、これからの因縁をより善いものへと変えていくことが望まれることになります。死後のことを心配するのであれば、とにかく今、この時における行いをより善いものとしていくことが大切なことであるとして、その方法論、ヒントが仏教にはたくさんございますので、是非、これを機会に仏教の学びを進めていって頂けましたら有り難く存じております。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

ありがとうございました!
スッキリしました!

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